30歳、年下わんこに愛されています
 「……遠藤さん?」
 不意に名前を呼ばれて、顔を上げる。

 職場で見慣れた顔
 ――丸田 光(まるた ひかる)が、カウンターの向こうに立っていた。

 店内の柔らかい灯りが、彼の横顔をやさしく照らす。

 少し驚いたように、でも優しく笑っていた。

 「一人ですか?」

 頷くと、彼はゆっくり腰を下ろし、目を細めながら訊ねる。

 「じゃあ……隣、いいですか?」

 その声が、低く静かな空気の中で、不思議と温かく響いた。

 グラスが触れ合う小さな音、氷が揺れる音。

 光は自然に視線を落としたまま静かに微笑んだ。

 言葉はなくても、そこにいるだけで、少しだけ安心できる気がした。

 光もグラスを手に取り、そっと私の方を見た。

 「無理に笑わなくていいですよ」

 その声は小さく、でも確かに私の心に届く。

 ――あの人も、こう言ってくれたことがあった。
 疲れた夜に、ふっと力を抜かせてくれた、朔の言葉。

 私はふっと息を吐き、初めて涙が流れた。

 胸の奥で、固くなっていた何かがゆっくりと緩んでいくのを感じる。
 懐かしい温かさと、新しい優しさが同時に胸に広がった。

 カウンターの端で、時折笑い声や氷の音が響く。
 それらが遠くで、映画のワンシーンみたいにぼんやり揺れた。

 私たちは言葉を交わさずとも、静かに互いの存在を確かめ合っていた。
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