30歳、年下わんこに愛されています
 午後五時。
 定時のチャイムが鳴り、私はそっとパソコンを閉じた。

 仕事をしている間も、何度も彼のメッセージを開いては、消えない既読マークを見つめていた。

 胸の奥が空洞みたいに痛む。
 「今日会えない」の一文だけで、世界がこんなにも静かになるなんて。

 外に出ると、空は少し赤く染まり始めていた。
 夕暮れの風が、頬に冷たく触れる。
 会社の前の通りを歩きながら、ふと昔のことを思い出した。

 ⸻

 彼と出会ったのは、私が二十三歳の頃だった。

 大学に通いながら、ガソリンスタンドの事務のアルバイトをしていた。

 授業終わりに制服へ着替え、伝票整理をしたり、電話を取ったり。
 忙しいけれど、社会の中で自分の居場所がある気がして、少し誇らしかった。

 店長の朔は、十歳年上だった。
 現場で作業をしている姿は誰よりも頼もしくて、電話口では穏やかにお客様に対応していて、そのギャップがなんだか格好よかった。

 「遠藤さん、最初はみんな緊張するから。ゆっくり覚えたらいいよ」

 初めて伝票を間違えたとき、責めるどころか、笑ってコーヒーを差し出してくれた。
 その温かさに、胸の奥がふっと緩んだ。

 彼の横顔を見ていると、世界が少し柔らかく見えた。

 年上の落ち着いた話し方も、疲れた夜にふいにくれる「無理すんなよ」という言葉も。
 全部が新鮮で、小さな世界で生きていた私の胸をときめかせるには充分すぎた。
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