この恋を実らせるために
私の心を覆っていた黒い靄のようなものはなくなっていた。女将さんと話をしたことで、心もお腹も満たされたみたいだ。
誰かに話せる、聞いてもらえるってすごい効果があるのね。
「ただいま戻りました」
自分のデスクにバッグを置いて残った資料を取り出していると、後ろから驚いたような声がした。
「あれ? 堀田、戻ったの?」
声の主は新人の時の指導員である橘亮平さんだった。
「はい、戻りましたけど。何かありましたか?」
何をそんなに驚いているのかわからなかった私は、不在中にどこかの営業先から連絡でもあったのかと返す。
「いや、こんな時間に戻ってくるなんて珍しいじゃないか。今までだとだいたい直帰してただろう」
真面目な顔で語る橘さんは私の変化に気づいたのだろうか、と考えるが無難な答えに留める。
「今日の成果を整理したくて」
「タブレット持っていったんなら、家でも整理くらいできるだろう。それでも戻ってきた。だから何かあるのかなって思ってさ」
営業部ではタブレットでその日の報告を簡単に済ませることで外回り後の直帰を許されている。
だから新人の時からたびたび直帰していた私を知っている橘さんは何かを探っているようだ。
でも、理由なんて話したくないし、知られたくもない。
「特別な理由なんてないですよ」
「ふうん。そっか。まぁ、あまり遅くならないように早めに片して帰れよ」
『遅くならないように』なんて声をかけてくれた橘さんはタブレットを持って席を離れて行く。
「人に早く帰るようになんて言って、自分はまだ仕事するなんて偉すぎだわ」
橘さんは4月から課長代理も務めていて、この課の中では一番多忙な人なのだ。
橘さんが去った方をぼんやりと見つめていた私は隣の席の林さんがキーボードを叩く音を聞いてハッとする。
「ごめん、うるさかったよね?」
「大丈夫です。僕はもう少しで終わるので」
「そう。じゃ、私も早く終わらせよう」
その後は早々に自分の仕事を片付けて帰れるようにディスプレイに視線を移して今日の業務を終えた。