『青い春の迷い星(ステラ)』 ~10歳年上の幼馴染は、一番遠い婚約者~

第十章:すれ違う視線と、蓮の苦悩

柚月は、大学に入学したが、蓮の監視は大学生活にまで及んでいた。
彼は、二階堂グループの影響力を使って、柚月の時間割や、彼女が履修する講義棟の警備を強化させた。柚月にとっては、大学という「自由の空間」さえも、蓮の支配下にあることを思い知らされる日々だった。

彼女は、友人たちには「厳格な家なので」と説明し、午後の講義が終わるとすぐに、迎えに来た黒塗りの車で家路につく。その車窓の外を見る柚月の瞳には、いつも冷めた諦めの色が宿っていた。
そんなある日。柚月は、大学のキャンパス内で結城先輩の姿を見かけた。彼は卒業しているはずだが、大学の研究室に顔を出しているらしい。

柚月は、反射的に体を硬くした。蓮の監視の目を恐れ、すぐに隠れようとする。
しかし、結城先輩が柚月に気づいた。
「柚月ちゃん!」
先輩は、手を振りながら駆け寄ってきた。柚月は、逃げられないと悟り、小さく会釈した。
「結城先輩、お久しぶりです」

「久しぶり。元気にしてた?連絡が途絶えたから心配してたんだ」
先輩の優しい声が、柚月の凍りついた心をわずかに溶かす。

「ええ、少し体調を崩してしまって。もう大丈夫です」
柚月は、嘘を重ねた。蓮との婚約を受け入れたこと、先輩の情報を調べ上げられたことは、どうしても口にできなかった。
結城先輩は、心配そうに柚月の顔を覗き込んだ。
「そうか。無理はしないでね。いつでも話を聞くよ。僕、この近くの研究室にいるから」

先輩はそう言って、柚月の小さな手を、優しく、しかししっかりと握りしめた。それは、柚月に「一人じゃない」というメッセージを送るための、友情にも似た励ましの行動だった。

柚月は、先輩の温かい手のひらに、一瞬、全てを打ち明けたい衝動に駆られた。しかし、蓮の冷たい言葉が脳裏をよぎる。
(この人は、私を守る力がない。そして、私のせいで、また傷つく)
柚月は、感謝と罪悪感を滲ませながら、すぐに手を引いた。

「ありがとうございます。わたくし、これで失礼します」
柚月は、逃げるように先輩に背を向けた。

この一瞬の接触は、蓮の監視の目を逃れていなかった。
蓮は、大学内に送り込んでいた警備担当者からのリアルタイムの報告を受け、その場に急行していた。彼が到着したときには、柚月は既に車に乗り込んでいたが、蓮は警備担当者が撮った一枚の写真を受け取った。
そこには、結城篤が柚月の手を握りしめ、顔を近づけている姿が写っていた。

蓮の冷徹な顔が、怒りではなく、深い苦悩と嫉妬に歪んだ。
(まだ、あの男と接触しているのか!)
蓮は、柚月が婚約を受け入れたのは、あくまで**「家のための降伏」であり、「恋の終わり」ではないことを理解した。彼の論理的な証明は、柚月の感情には何の影響も与えていなかったのだ。

蓮は、写真に写る結城の優しい笑顔に、激しい怒りを覚えた。あの男は、柚月の心を掴んでいる。自分がどれだけ「ビジネスの論理」や「支配」という形で柚月を繋ぎ止めようとしても、彼女の心は、常にあの平凡で温かい男の元にある。

「青い春の迷いだと?……そうではない。これは、君の真実の愛だ」
蓮は、柚月の「愛」が本物であることを認めざるを得なかった。それは、蓮にとって、最大の敗北だった。
秘書が、心配そうに蓮に声をかけた。「二階堂様、すぐにあの男を大学から排除しましょうか。会長にも話を通して――」

蓮は、無言で手を振って制した。
「不要だ。これ以上、あの男を排除すれば、柚月の心はさらに私から遠ざかる」
蓮の苦悩は、柚月に対する愛と、支配欲との間で引き裂かれていた。

(私は、彼女の愛ではなく、彼女の絶望を手に入れた。このままでは、彼女は私を一生許さないだろう)
蓮は、柚月の愛を手に入れることは絶望的だと悟りながらも、彼女を手放すことも、憎まれるままに隣に置くことも、どちらも耐え難い苦痛だった。

その日の夜、一条家。柚月は、自室で、蓮が置いていった高価な婚約指輪を見つめていた。ダイヤは大きく、完璧に輝いている。
(この指輪は、愛ではなく、呪いの鎖だ)

そこへ、蓮が突然、アポイントメントなしで現れた。彼は、柚月の部屋の扉をノックもせず、入ってきた。
「蓮さま、無断で部屋に入るなんて、品がないですよ」柚月は、皮肉を込めて言った。
蓮は、その皮肉を無視し、柚月の目の前に立ちはだかった。

「今日、あの男と会ったな」
柚月の顔が凍り付く。
「監視していたのですね。やはり、蓮さまは信用できない方です」

「そう言うな。私は、君を守っているだけだ」
蓮は、柚月の顔を、珍しく切実な眼差しで見つめた。
「君が、あのような男と、人目を忍んで会う姿は、一条家の品格を大きく損なう。君は、自分の立場を、なぜ理解しない?」
柚月は、蓮の「説教」と「支配」の言葉に、怒りを覚えた。

「わたくしの個人的な交流が、なぜ蓮さまに関係あるのですか。蓮さまは、わたくしに憎まれても、支配したいだけなのでしょう?わたくしの苦悩など、どうでもいいのですね」

柚月の言葉は、蓮の真の意図(君をあらゆる危険と束縛から守りたい)を、「支配」と「嫌がらせ」だと決めつけていた。
蓮は、柚月の誤解と憎しみに満ちた瞳を見て、胸が張り裂けそうになるのを感じた。
(私は、君の苦悩を一番理解している。君を孤独から守りたいのだ)

しかし、蓮は、その言葉を口に出す代わりに、最も冷酷な言葉を選んだ。
「その通りだ。私は、君の婚約者であり、君の未来の夫だ。君の全ては、私の責任にある。君の苦悩は、私には些細な問題だ」
蓮は、柚月の頬に、触れるか触れないかの距離で顔を近づけた。

「君は、私に逆らうな。君が私を憎むなら、憎むがいい。だが、君は私のものだ」
柚月は、彼の言葉を独占欲と傲慢さの現れだと受け止め、さらに憎悪を深めた。

蓮は、柚月の冷たい反発を、全て受け止めるかのように、静かに部屋を出ていった。彼の背中には、柚月に愛されていない苦悩と、それでも彼女を守るという孤独な決意が深く刻まれていた。

蓮は、柚月の愛を失った苦悩に苛まれながらも、柚月はそれを嫌がらせと解釈する。
互いの真意が、最も遠い場所にあるという、切ないすれ違いが、二人の関係をさらに複雑に拗らせていくのだった。
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