『青い春の迷い星(ステラ)』 ~10歳年上の幼馴染は、一番遠い婚約者~

第九章:先輩との距離と、蓮の静かな苦悩

柚月が結城先輩のキーホルダーを蓮に奪われ、ゴミ箱に捨てられてから、彼女の心は完全に氷に閉ざされた。
蓮は、柚月の身の回りの世話をする秘書や使用人に対し、「婚約者を傷つけるな」という厳命を出していたが、その優しさは柚月には届かない。

彼の行動は、ただの監視と支配の強化にしか見えなかった。
「柚月様、そろそろ大学生活が始まります。入学式の準備を」
使用人の言葉に、柚月は無言で頷く。彼女は、「二階堂蓮の婚約者」という、新しい役割を演じ始めることへの絶望を感じていた。

その頃、結城先輩は、柚月からの連絡が途絶えたことに不安を感じていた。最後に会ったのは、あのバーでの事件の直後。柚月の顔色が優れなかったことは覚えている。

先輩は、柚月の携帯に何度もメッセージを送ったが、既読さえつかない。
(もしかして、あの縁談の相手に何か言われたのか…?)

先輩は、柚月が話していた「権力のある相手」が、彼女を苦しめていることを察していた。柚月が自分の名前を「盾」として使ったことはわかっているが、彼女の切実な想いを知っていたからこそ、先輩は放っておけなかった。

彼は、一条家に連絡を取ろうとしたが、柚月の父である慎吾社長は、蓮の意向もあり、「娘は体調を崩しており、外部との接触は控えるようにしている」と、冷たくあしらった。

先輩は、柚月が自分との連絡を断ったのだと理解せざるを得なかった。それは、彼女が縁談を受け入れたことを意味する。
(僕の存在が、かえって彼女の立場を危うくしたのかもしれない)

結城先輩は、柚月の安全を最優先に考え、これ以上彼女の生活に入り込むことは、彼女を助けるどころか、さらに追い詰めることになると判断した。先輩は、柚月の「自由」を尊重しようと、身を引くことを決めた。
柚月の「好きな人」は、彼女の安全のために、柚月との距離を選んだ。この距離が、蓮の誤解を、さらに確固たるものにしていく。

蓮は、週末、秘書を伴って、二階堂グループが後援する美術展のレセプションに出席していた。その会場に、一条夫妻と、完璧な笑みを貼り付けた柚月の姿があった。
「蓮くん、柚月。君たちは本当に絵になる」
会場で、二階堂会長が、蓮と柚月を並ばせて嬉しそうに言った。

蓮の横に立つ柚月は、隙のないドレスを纏い、愛想よく微笑んでいる。その笑顔は、誰もが「幸せな婚約者」だと信じるだろう。しかし、蓮だけは知っていた。その瞳の奥に、燃えるような憎悪と、深い絶望が隠されていることを。

「柚月、少しこちらへ」
蓮は、人目を避けるように柚月を連れ出し、テラスへと向かった。春の夜風が、柚月の髪をそっと揺らす。
「婚約者としての振る舞いは完璧だ。一条社長も、安心しているだろう」

蓮の言葉は、褒めているのか、皮肉を言っているのか、柚月には判断がつかなかった。
「蓮さまの望み通りです。わたくしは、二階堂家に相応しい人形になりましたから」

柚月の声は、静かで冷たい。感情を失った人形のような言葉は、蓮の胸を強く締め付けた。
「人形…?」

「はい。わたくしの自由も、愛する人も、全てを蓮さまが奪った。わたくしに残されたのは、蓮さまの意向に従うという、役割だけです」
柚月は、蓮の支配を否定し、彼を愛を奪った冷酷な男だと断罪した。

蓮の瞳の奥が、激しく動揺した。
(違う!私は、君を守るために…!)
蓮は、「君が父親の債務から解放されるためだ」という真実を告げようと、唇を開きかけた。しかし、その言葉は、喉元で冷たい石のように詰まった。

もし、今、柚月に「君を家から守りたかった」と真実を告げたところで、彼女はそれを「私を支配するための新たな詭弁だ」としか受け取らないだろう。
蓮は、自分の不器用さと、柚月との間に積み重なった誤解の壁の厚さに、絶望した。

「そうか。君はそう思っているのだな」
蓮は、結局、自分の真意を語ることを諦めた。彼は、冷徹な仮面を深く被り直す。
「君がどう思おうと、構わない。君は、二階堂家に入る。そして、私が二階堂の人間として、君の全てに責任を持つ」

その言葉は、柚月には「支配の宣言」としか聞こえなかった。
柚月は、蓮を軽蔑の眼差しで見つめ返した。
「わたくしは、蓮さまを夫として愛することは、一生ありません」

「……」
蓮は、その言葉に、わずかに苦痛に顔を歪ませたが、すぐに耐えた。
「構わない。私の望みは、君が私の隣にいることだ。愛など、後からどうにでもなる」
蓮はそう言い放つと、柚月の冷たい手を掴み、人々の待つ会場へと戻っていった。

彼の「愛など、後からどうにでもなる」という言葉は、柚月には傲慢な独占欲として響いたが、蓮の心の奥底では、「君の愛がなくても、君を守ることができれば、それでいい」という、孤独な決意の表れだった。

二人の間にある距離は、恋人として近づくどころか、婚約者として立つ隣で、深く、冷たく広がっていくのだった。
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