『青い春の迷い星(ステラ)』 ~10歳年上の幼馴染は、一番遠い婚約者~

第十一章:二人の距離が近づく夜

初夏を迎え、二階堂グループが主催する大規模な慈善パーティが、都心の最高級ホテルで開かれることになった。柚月は、婚約者として、蓮に同伴するよう厳命されていた。

柚月は、深いブルーのロングドレスを身に纏い、蓮と並んで会場へ足を踏み入れた。華やかなシャンデリアの光が、柚月の顔に貼り付けられた完璧な笑顔を照らす。
蓮は、柚月の隣で、国内外の要人たちと淀みなく会話を交わしていく。彼の佇まいは、非の打ち所がなく、まさに財界の若き帝王といった風格だった。

(周りの誰もが、私たちが愛し合っていると思っているのだろう。滑稽ね)
柚月は、蓮の支配によってこの場に立たされている自分の孤独を噛み締めた。蓮の腕が、時折、彼女の背に触れる。それは、柚月が他の男と話すことを許さない、「私のものだ」という無言の牽制だった。

しばらくすると、柚月の父である慎吾社長が、蓮に挨拶に来た。
「蓮くん、取引先のサトウさんが、どうしても君と話したいそうだ。柚月は、しばらくこちらで休ませてあげてくれ」

「承知いたしました」
蓮は、柚月に一瞥もくれず、すぐに父と共に人混みの中へと消えていった。
柚月は、人が少なくなったテラスへと向かった。夜風にあたり、冷たいカクテルを一口飲む。この一瞬の解放感が、柚月にとって唯一の救いだった。

しかし、その解放感も束の間、すぐに柚月の後ろに、一人の男性が立っているのを感じた。
「こんなところで、一人寂しそうにして。婚約者殿は、また君を放置しているのか?」

柚月が振り返ると、そこにいたのは、蓮のビジネス上のライバル企業の御曹司、沢村だった。彼は、蓮とは対称的に、軽薄で遊び慣れた雰囲気を纏っている。
「沢村さま。ご心配なく。わたくしは、ただ休んでいるだけです」

柚月は、蓮の監視下にあることを思い、警戒心を高めた。蓮は、「品格」を重んじる。このような男と親しく話しているところを見られれば、また説教が始まるだろう。
沢村は、柚月の警戒心を面白がるように、さらに近づいた。

「二階堂の御曹司は、君をまるで美しい展示品のように扱っているようだ。君のような美しい宝石は、もっと大切にされ、自由に輝くべきだ」
沢村は、柚月の細い腕に、そっと手を伸ばした。
その瞬間、柚月の背後に、氷のような冷気が走った。
「沢村君」

声の主は、もちろん二階堂 蓮だ。
彼の声は低く、感情を押し殺した怒りが、その冷たさの中に潜んでいる。
「柚月は、私の婚約者だ。彼女に不用意に触れるのは、止めていただきたい」

蓮は、沢村と柚月の間に、一歩踏み込んだ。その威圧感は、明らかに沢村を牽制している。
沢村は、舌打ちし、蓮を挑発するように笑った。
「二階堂君、ずいぶん過保護だな。君がビジネスに夢中で、彼女を放っておくから、私が声をかけただけだ。彼女は、君に愛されているようには見えないが?」

「私の妻となる女性を、君のような遊び人に品評される覚えはない」
蓮は、静かに、しかし、絶対的な力を込めて言い放った。その言葉は、「柚月は私の所有物だ」という、独占欲の表れだった。

沢村は、面白くなさそうに肩を竦め、去っていった。
二人がテラスに二人きりになると、柚月はすぐに蓮から距離を取った。
「蓮さまのお陰で、また『品のない男』に目をつけられましたね。監視ご苦労様です」
柚月の皮肉に、蓮は何も言い返さなかった。彼は、いつもと違い、柚月に説教をすることも、𠮟責をすることもなかった。
「……柚月。少し、飲みすぎた」

蓮はそう呟き、ネクタイを少し緩めた。彼の顔は、普段の冷徹な顔とは違い、少し赤みを帯びている。彼は、このパーティの席で、ビジネスのために酒を飲みすぎたようだ。

蓮は、ふらつく足でテラスの縁に近づき、夜景を見つめた。その背中は、柚月が知る「完璧な御曹司」ではなく、ただの疲弊した男に見えた。
「柚月」
蓮が、柚月の名を呼んだ。その声は、驚くほど幼く、寂しげだった。

「私は、君を支配したいわけではない。ただ、君が……安全でいてくれれば、それでいい」
蓮は、アルコールのせいで、普段隠している本音が、わずかに漏れてしまった。
柚月の心臓が、微かに跳ねた。
(安全? どういう意味?)

柚月は、彼の真意を探ろうと、一歩近づいた。
「蓮さまは、わたくしを家から解放してくれるわけではありません。支配しているだけです」
「……」
蓮は、柚月の方を向かず、夜景を見つめたまま、苦しそうに口を開いた。

「この世で、安全な場所など、ない。私も、君も、常に役割と期待に縛られている。だが、君を私と同じ場所に置けば、私が全てから守れる」
蓮の瞳は、孤独な光を帯びていた。
「君が私を憎んでも、君の居場所が揺らぐことはない。君は、私が守る」

蓮は、そこで言葉を区切り、柚月の方にふらりと向き直った。その顔は、アルコールのせいで、いつになく感情的だった。
「私が、この婚約に私的な感情を一切持っていないと、君は思っているのか?」

蓮は、柚月の小さな顎を、そっと掴んだ。その指先は、熱を持っていた。
「私は……私は、君が一番遠い場所にいるのが、苦痛なのだ」
蓮の視線が、柚月の唇に注がれる。柚月は、その迫る熱に、体が動かなかった。
(私を……拒絶しないの?)
蓮は、衝動的に、柚月にキスをしようと顔を近づけた。
しかし、キス寸前で、蓮の瞳に一瞬の理性が戻った。彼は、柚月の恐怖に満ちた瞳を見た。

「……すまない」
蓮は、柚月の顎からそっと指を離し、一歩、後退した。
「酒に酔ったようだ。忘れてくれ」
蓮は、そう言うと、冷静さを取り戻した冷徹な仮面を再び被り、テラスのドアを開けた。
柚月は、その場に立ち尽くした。

蓮の「私的な感情」という言葉。「苦痛」という言葉。そして、キス寸前の衝動。
それは、柚月が蓮に対して抱く「冷徹な支配者」というイメージを、一瞬だけ揺らがせた。

しかし、彼はすぐに「忘れてくれ」と、自分の感情を否定した。柚月は、その蓮の行動を、「支配者としての立場を守るための芝居」だと解釈した。
(蓮さまは、私を完全に支配下に置くために、愛のフリまでしようとしたのか)

柚月の心に、一瞬灯りかけた真意解明の光は、蓮の不器用な自己否定によって、すぐに消されてしまった。二人の距離は、肉体的には近づいたが、心の距離は、さらに遠ざかったのだった。
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