『青い春の迷い星(ステラ)』 ~10歳年上の幼馴染は、一番遠い婚約者~

第五章:真意を隠す御曹司と迫る最終通告

二階堂家での二度目の顔合わせは、一週間後の土曜日に設定されていた。しかし、前回の顔合わせで柚月が「愛する人の存在」を盾に拒否を表明したことで、一条家の中の空気は最悪だった。

父・慎吾は、連日、書斎に籠りきりで、柚月と目を合わせようとしない。母は口を利かないが、その眼差しは「どうして余計なことをしたのか」と、無言の圧力をかけていた。

そして、蓮による「監視」の視線は、あれからさらに増した。
学校の門前、近所のカフェ、友人と別れた道端。どこにいても、黒い高級車の存在や、明らかにそれとわかる蓮の部下らしき人物の影を感じる。
(まるで、逃亡犯みたいだわ)

柚月は、その監視のせいで、結城先輩との「偽装交際」の打ち合わせもままならない状態だった。先輩とは、短いメッセージでのやり取りしかできず、彼の優しさが、柚月の心の中の罪悪感を募らせていた。

金曜日の夜。いよいよ明日が最終通告の日だ。
柚月は、覚悟を決め、夕食後に父の書斎の扉を叩いた。
「お父様、少しお話しさせてください」
父は、重い顔を上げ、柚月を中へ入れた。

「柚月……わかっているな。明日、蓮くんに会って、もう一度、考え直したと伝えなさい」
「お父様、わたくしは考えを変えていません」
柚月は、きっぱりと言った。「二階堂さまとの婚約は、お受けできません。わたくしにとって、あの人と結婚することは、幸せではありません」

父は、ため息を一つ吐き、娘に詰め寄った。
「馬鹿なことを言うな! 幸せ、幸せと、お前はまるで世間知らずの娘のようだ! 蓮くんほどの男が、お前の夫になる。それは一条家にとっても、お前の人生にとっても、最大の幸せではないか!」

「わたくしは、蓮さまが苦手なのです。あの人は、いつも、わたくしを否定することしかおっしゃいません」
「それはな、期待だ! 蓮くんは、お前を一条家の娘として、立派に育て上げたいと思っているのだ!」

父の言葉は、蓮の真意を代弁していた。蓮は、確かに柚月のことを、幼い頃から「立派な妻」として育てることに異常なまでの執着を見せていた。

「その期待が、わたくしには重荷なのです。お父様、わたくしに、わたくしの自由な人生を歩ませてください」
「自由だと? お前一人の自由のために、一条家の三百年の暖簾を危険に晒すというのか!いいか、これは家のための結婚だ。蓮くん自身も、二階堂グループの拡大という目的のために、この婚約を進めている」

父は、柚月の「恋」を否定し、蓮の動機を「ビジネス」だと断定した。
「お前の『好きな人』など、蓮くんの目にはただの雑音でしかない。明日、ちゃんと頭を下げて、これ以上のわがままは言わないと誓うんだ」

柚月は、父の頑なな態度に、もう何を言っても無駄だと悟った。
蓮も父も、柚月の個人的な感情を、ビジネスの論理で簡単に踏みにじろうとしている。
(わかったわ、蓮さま。あなたは「ビジネス」の論理でこの婚約を強行しようとする。なら、私は「感情」の論理で、それを打ち破ってみせる)

柚月は、書斎を出て、改めて決意を固めた。

翌日。迎賓館での顔合わせは、前回よりもさらに重い空気の中で始まった。二階堂会長夫妻は欠席し、応接室にいるのは、蓮と、一条夫妻、そして柚月の四人だけだ。

蓮は、前回の黒ではなく、グレーのスーツを着ていた。しかし、その表情は前回以上に冷たく、感情の起伏がない。まるで、氷の彫刻のようだった。
「柚月。一週間、考える時間はあったな」蓮は、父の挨拶も待たず、柚月に静かに問いかけた。

その問いかけは、「イエス」以外の答えを許さないという圧力を伴っていた。
「はい」柚月は、蓮の冷徹な瞳をまっすぐ見据えた。「わたくしは、考えを変えていません」
父は、顔面蒼白になり、蓮に慌てて弁解した。「蓮くん、すまない。この子はまだ若く、少し浮かれているだけなんだ。必ず、私が――」

蓮は、父の言葉を手で制した。
「一条社長。結構です」
蓮は、静かに、柚月との間に置かれたコーヒーカップに視線を落とした。

「柚月。私が君に求めるのは、一条家の品格だ。君が言う『愛する人』との交際は、家門の恥となる」
柚月は、その言葉に、胸が熱くなった。

「わたくしの個人的な感情が、なぜ恥になるのですか。蓮さまこそ、ご自身の『ビジネス』のために、わたくしの人生を犠牲にしようとしている。それが、恥ではないのですか!」

柚月が感情的になると、蓮の唇が、ほんのわずかに歪んだ。それは、怒りではなく、苦痛にも似た表情だったが、すぐに消えた。
「これは、ビジネスの論理だ。君の父親は、一条呉服問屋の未来のために、この婚約を必要としている。そして、私は、二階堂グループの未来のために、この婚約を必要としている」

蓮は、あえて「個人的な感情」を排除し、「ビジネス」という冷たい言葉を繰り返した。
「君がその『愛する人』に夢中になったところで、二階堂家に嫁ぐという事実は変わらない。君がこの婚約を受け入れる理由を説明しよう」

蓮は、懐から一枚の書類を取り出した。それは、柚月の想いとは全く関係のない、冷徹なビジネス文書だった。
「これは、一条呉服問屋が、数年前に抱え込んだ多額の債務に関する契約書だ。二階堂グループは、一条社長の要請を受け、この債務を全て肩代わりしている」

その言葉に、父の顔から、一切の血の気が引いた。柚月は、その事実を初めて知った。
「その契約には、一条家の娘と二階堂家の御曹司との婚姻を条件とした条項が含まれている。もし君が婚約を破棄すれば、一条家は即座に、二階堂グループへの全額返済を求められる」

蓮は、冷徹に言い放った。
「一条社長は、家を守るため、君を私の妻にするしかなかった。君の父は、君の幸せと、家の存続を天秤にかけ、家の存続を選んだ」
その言葉は、柚月の心臓を突き刺した。「愛する人」の存在など、この冷徹なビジネスの現実の前では、塵にも等しい。

「だから、柚月。君が何を叫ぼうと、この婚約は破棄できない。君は、家のために、私を夫として受け入れるしかないのだ」
蓮は、自分の真意(柚月への幼い頃からの深い想いと、彼女を家族の借金から守るという気持ち)を、一切語らなかった。

彼が柚月に突きつけたのは、「君は家のための道具だ」という、最も残酷で、最も合理的な「ビジネスの論理」だけだった。
柚月は、その圧倒的な現実に、言葉を失った。蓮の冷たい瞳は、「私に逆らうな」と告げている。
「わかりました」

柚月は、震える声で答えた。彼女の瞳からは、涙がこぼれ落ちそうになっていた。
「わかりました、二階堂さま。私は、あなたと結婚します」
それは、愛のない、絶望的な降伏だった。

蓮の表情は、柚月の「降伏」にも関わらず、晴れることはなかった。むしろ、その瞳の奥には、深い苦悩と、抑えきれない悔しさが滲んでいた。彼は、最も愛する人に、最も憎まれる方法でしか、彼女を繋ぎ止めることができなかったのだ。

蓮の冷たい眼差しは、柚月を誤解させ、彼の真意は、冷徹なビジネスの陰に完全に隠されたのだった。
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