『青い春の迷い星(ステラ)』 ~10歳年上の幼馴染は、一番遠い婚約者~
第六章:蓮の密かな優しさと深まる誤解
柚月が婚約を受け入れてから、蓮の「監視」は「過保護」へと形を変えた。
二階堂家が一条呉服問屋の債務を肩代わりしているという事実。そして、父がそのために柚月を犠牲にしたという現実。それは、柚月の「愛」という盾を完全に砕いた。
柚月は、婚約は受け入れたものの、蓮に対する苦手意識と憎しみは増すばかりだ。彼は、自分の人生を支配し、愛を否定した冷酷なビジネスマンでしかない。
「柚月、明日の外出は控えるべきだ」
夕方、一本の電話がかかってきた。声は蓮。冷たく、事務的で、一切の感情が読み取れない。
「明日、友人たちと映画に行く予定ですが」柚月は、冷たく答えた。
「明日は都心部でデモが行われる予定だ。君のような一条家の令嬢が、不必要な危険に身を晒す必要はない。私が迎えにやらせる」
「不必要な危険、ですか。蓮さまにとっては、映画を見に行くことさえ、一条家の品格を損なう不必要な行為なのですね」
柚月は、「説教」だと思い、皮肉を込めて言い返した。
「そうではない」蓮の声が、ほんのわずかに低くなった。「君の身の安全は、二階堂グループにとっても重要だ」
結局、蓮は柚月の反抗的な態度を無視し、翌日、黒塗りの車を一条家の前に寄越した。柚月は、友人に病気だと嘘をつき、家に閉じこもるしかなかった。蓮は、過保護な支配者として、柚月の生活の隅々まで干渉し始めたのだ。
一週間後の週末。
柚月は、どうしても参加したい催しがあった。それは、大学のサークルのプレ新歓パーティだ。結城先輩もOBとして参加すると聞いていた。
(蓮さまには絶対に知られてはいけない)
柚月は、蓮の監視の目をかいくぐるため、母には「図書館に行く」と嘘をつき、地味な服装で家を出た。
パーティー会場は、都心から少し離れた小さなバーだった。賑やかな喧騒と、学生たちの開放的な雰囲気に、柚月の心は久しぶりに軽くなるのを感じた。
「柚月ちゃん、来てくれたんだね!」
結城先輩が、笑顔で迎えてくれた。彼に会うのは、あの「嘘の偽装工作」の日以来だ。先輩の優しさだけが、今の柚月にとって唯一の救いだった。
「あの、先日は、本当にありがとうございました。おかげで……」柚月は、婚約を受け入れた事実を言えずに、言葉を濁した。
「いいんだ。君の事情は理解している。いつでも頼ってくれ」
結城先輩は、何も聞かず、優しく笑った。
柚月は、先輩の近くで、久しぶりの「自由」を楽しんだ。だが、カクテルを二杯飲んだ頃、急に体の火照りと、目眩を感じ始めた。
(おかしいわ。こんなに酔うはずがないのに……)
視界が歪み、立っているのがやっとになる。柚月は、慌ててバーのトイレに駆け込んだ。
洗面台に凭れかかり、冷たい水を顔にかけるが、効果がない。ふと、テーブルに置いていたカクテルに、誰かが何かを混ぜたような気がした、という友人の会話を思い出した。
「もしかして……」
震えながら、柚月は携帯を取り出し、誰かに助けを求めようとした。だが、指先が上手く動かない。
その時、トイレのドアが乱暴にノックされた。
「おい、可愛いお嬢さん。いつまで籠もってるんだ?そろそろ俺たちの相手してくれよ」
数人の男の声。柚月は絶望した。パーティーに紛れ込んだ不審な輩に目をつけられたのだ。
「開けなさい!」
ドアが激しく揺れる。柚月は、震えながら鍵を握りしめた。
その瞬間、外の廊下で、凄まじい衝撃音と、男たちの怒鳴り声が響いた。
「てめぇ、誰だ!」
「この女性に、不用意に近づくな」
その声は、低く、冷徹で、そして、柚月が世界で一番聞きたくない声だった。
蓮だ。
ドアの隙間から、男たちが床に組み伏せられる「ゴンッ」という鈍い音が聞こえる。蓮の吐き出す息は荒く、戦闘態勢にあることを示していた。
数分後、静寂が訪れた。
蓮の声が、柚月がいるドアの向こうから聞こえる。驚くほど静かで、冷たかった。
「柚月。開けなさい」
柚月は、震える手で鍵を開けた。ドアを開けると、そこには、完璧なスーツ姿が少し乱れた蓮が立っていた。彼の右手には、微かに血が滲んでいる。
「蓮、さま……」
柚月は、彼の顔を見た途端、安堵と恐怖とが入り混じった感情で、その場に崩れ落ちそうになった。
蓮は、柚月の顔色を見て、一瞬で状況を理解した。彼の目が、バーの奥のテーブルに向けられ、ある男に殺意すら覚えるような鋭い視線を浴びせた。
蓮は、何も言わず、柚月の体を抱き上げた。その腕は、強く、柚月の華奢な体を完全に包み込む。
「蓮さま……どうしてここに」
柚月は、震える声で尋ねた。
「なぜ、だと?」蓮の声には、怒りが滲んでいた。「君が、私に隠れて、こんな場所に来るからだ!」
蓮は、柚月を車に乗せ、病院ではなく、一条家へと直行させた。車内で、蓮は柚月の体から汗が噴き出しているのを見て、エアコンの温度を下げた。
「君は、一条家の令嬢だ。このような低俗な場所で、品のない男にたぶらかされるなど、言語道断だ」
蓮の口から出たのは、やはり「説教」だった。柚月の身を案じる言葉など、一つもない。
「私が、君を助けに来た理由は、家のためだ。婚約者が汚名を着るわけにはいかない」
蓮は、冷徹なビジネスの論理を盾にした。
(そう、結局、私の個人的な危機さえも、彼は「家の問題」としてしか扱わないのね)
柚月は、蓮の腕の中で、絶望した。彼の優しさは、愛ではなく、あくまで「責任」と「支配」から来るものだ。
しかし、柚月は知らない。蓮が、今日のパーティーの不審な情報を部下から聞きつけ、いても立ってもいられず、自ら柚月を助けに来たことを。
そして、彼の右手の傷は、柚月を狙っていた男たちを、感情に任せて叩きのめした証拠だということを。
蓮は、「君を心配した」という真の優しさを隠すために、あえて「家のためだ」という冷たい言葉を選び、柚月の心は、さらに深く誤解を積み重ねていったのだった。
二階堂家が一条呉服問屋の債務を肩代わりしているという事実。そして、父がそのために柚月を犠牲にしたという現実。それは、柚月の「愛」という盾を完全に砕いた。
柚月は、婚約は受け入れたものの、蓮に対する苦手意識と憎しみは増すばかりだ。彼は、自分の人生を支配し、愛を否定した冷酷なビジネスマンでしかない。
「柚月、明日の外出は控えるべきだ」
夕方、一本の電話がかかってきた。声は蓮。冷たく、事務的で、一切の感情が読み取れない。
「明日、友人たちと映画に行く予定ですが」柚月は、冷たく答えた。
「明日は都心部でデモが行われる予定だ。君のような一条家の令嬢が、不必要な危険に身を晒す必要はない。私が迎えにやらせる」
「不必要な危険、ですか。蓮さまにとっては、映画を見に行くことさえ、一条家の品格を損なう不必要な行為なのですね」
柚月は、「説教」だと思い、皮肉を込めて言い返した。
「そうではない」蓮の声が、ほんのわずかに低くなった。「君の身の安全は、二階堂グループにとっても重要だ」
結局、蓮は柚月の反抗的な態度を無視し、翌日、黒塗りの車を一条家の前に寄越した。柚月は、友人に病気だと嘘をつき、家に閉じこもるしかなかった。蓮は、過保護な支配者として、柚月の生活の隅々まで干渉し始めたのだ。
一週間後の週末。
柚月は、どうしても参加したい催しがあった。それは、大学のサークルのプレ新歓パーティだ。結城先輩もOBとして参加すると聞いていた。
(蓮さまには絶対に知られてはいけない)
柚月は、蓮の監視の目をかいくぐるため、母には「図書館に行く」と嘘をつき、地味な服装で家を出た。
パーティー会場は、都心から少し離れた小さなバーだった。賑やかな喧騒と、学生たちの開放的な雰囲気に、柚月の心は久しぶりに軽くなるのを感じた。
「柚月ちゃん、来てくれたんだね!」
結城先輩が、笑顔で迎えてくれた。彼に会うのは、あの「嘘の偽装工作」の日以来だ。先輩の優しさだけが、今の柚月にとって唯一の救いだった。
「あの、先日は、本当にありがとうございました。おかげで……」柚月は、婚約を受け入れた事実を言えずに、言葉を濁した。
「いいんだ。君の事情は理解している。いつでも頼ってくれ」
結城先輩は、何も聞かず、優しく笑った。
柚月は、先輩の近くで、久しぶりの「自由」を楽しんだ。だが、カクテルを二杯飲んだ頃、急に体の火照りと、目眩を感じ始めた。
(おかしいわ。こんなに酔うはずがないのに……)
視界が歪み、立っているのがやっとになる。柚月は、慌ててバーのトイレに駆け込んだ。
洗面台に凭れかかり、冷たい水を顔にかけるが、効果がない。ふと、テーブルに置いていたカクテルに、誰かが何かを混ぜたような気がした、という友人の会話を思い出した。
「もしかして……」
震えながら、柚月は携帯を取り出し、誰かに助けを求めようとした。だが、指先が上手く動かない。
その時、トイレのドアが乱暴にノックされた。
「おい、可愛いお嬢さん。いつまで籠もってるんだ?そろそろ俺たちの相手してくれよ」
数人の男の声。柚月は絶望した。パーティーに紛れ込んだ不審な輩に目をつけられたのだ。
「開けなさい!」
ドアが激しく揺れる。柚月は、震えながら鍵を握りしめた。
その瞬間、外の廊下で、凄まじい衝撃音と、男たちの怒鳴り声が響いた。
「てめぇ、誰だ!」
「この女性に、不用意に近づくな」
その声は、低く、冷徹で、そして、柚月が世界で一番聞きたくない声だった。
蓮だ。
ドアの隙間から、男たちが床に組み伏せられる「ゴンッ」という鈍い音が聞こえる。蓮の吐き出す息は荒く、戦闘態勢にあることを示していた。
数分後、静寂が訪れた。
蓮の声が、柚月がいるドアの向こうから聞こえる。驚くほど静かで、冷たかった。
「柚月。開けなさい」
柚月は、震える手で鍵を開けた。ドアを開けると、そこには、完璧なスーツ姿が少し乱れた蓮が立っていた。彼の右手には、微かに血が滲んでいる。
「蓮、さま……」
柚月は、彼の顔を見た途端、安堵と恐怖とが入り混じった感情で、その場に崩れ落ちそうになった。
蓮は、柚月の顔色を見て、一瞬で状況を理解した。彼の目が、バーの奥のテーブルに向けられ、ある男に殺意すら覚えるような鋭い視線を浴びせた。
蓮は、何も言わず、柚月の体を抱き上げた。その腕は、強く、柚月の華奢な体を完全に包み込む。
「蓮さま……どうしてここに」
柚月は、震える声で尋ねた。
「なぜ、だと?」蓮の声には、怒りが滲んでいた。「君が、私に隠れて、こんな場所に来るからだ!」
蓮は、柚月を車に乗せ、病院ではなく、一条家へと直行させた。車内で、蓮は柚月の体から汗が噴き出しているのを見て、エアコンの温度を下げた。
「君は、一条家の令嬢だ。このような低俗な場所で、品のない男にたぶらかされるなど、言語道断だ」
蓮の口から出たのは、やはり「説教」だった。柚月の身を案じる言葉など、一つもない。
「私が、君を助けに来た理由は、家のためだ。婚約者が汚名を着るわけにはいかない」
蓮は、冷徹なビジネスの論理を盾にした。
(そう、結局、私の個人的な危機さえも、彼は「家の問題」としてしか扱わないのね)
柚月は、蓮の腕の中で、絶望した。彼の優しさは、愛ではなく、あくまで「責任」と「支配」から来るものだ。
しかし、柚月は知らない。蓮が、今日のパーティーの不審な情報を部下から聞きつけ、いても立ってもいられず、自ら柚月を助けに来たことを。
そして、彼の右手の傷は、柚月を狙っていた男たちを、感情に任せて叩きのめした証拠だということを。
蓮は、「君を心配した」という真の優しさを隠すために、あえて「家のためだ」という冷たい言葉を選び、柚月の心は、さらに深く誤解を積み重ねていったのだった。