『青い春の迷い星(ステラ)』 ~10歳年上の幼馴染は、一番遠い婚約者~

第七章:御曹司の密かな調査と、嘘の崩壊の予兆

例のバーでの一件以来、柚月は完全に蓮の過保護な支配下に置かれていた。
柚月が家から一歩出れば、必ず蓮が手配した護衛兼運転手の車がつき従う。彼の目的は、柚月の身の安全というより、柚月が「愛する人」、すなわち結城先輩と接触するのを防ぐことにあるのは明らかだった。

柚月は、自分のプライベートが完全に奪われたことに憤りを感じていた。蓮の行動は、全て「一条家の令嬢としての品格を守るため」という名目のもとで行われる。
(私を助けたのも、結局は責任と体裁のため。私の意志など、少しも尊重していない)

柚月は、携帯電話を手に取った。結城先輩からのメッセージに、そっと指を滑らせる。
『柚月ちゃん、先日は大丈夫だった?無理しないでね。いつでも話聞くから』

この優しい言葉だけが、柚月の心を支える唯一の光だった。しかし、蓮の監視のせいで、先輩と会うことも、電話でゆっくり話すことも叶わない。
蓮は、柚月の「愛する人」の存在を、「二階堂家に相応しくない障害」と見なしている。そして、その障害を排除するために、水面下で冷徹な作業を進めていた。

二階堂グループ本社ビル。蓮の執務室は、夜十時を過ぎても明かりが灯っていた。
蓮は、大きなデスクの上に広げられた資料を、無表情で読み進めている。それは、秘書から提出された結城 篤に関する徹底的な調査報告書だった。

氏名、生年月日、一条家との関係、大学での成績、アルバイト先、家族構成、果ては過去数年間のSNSの投稿記録まで。蓮は、その男の人生の全てを、冷徹なビジネスの眼で分析していた。

「……目立った問題はない」蓮は、資料から目を上げ、静かに呟いた。
結城篤は、名門大学の出身で、実家も都内で小さな不動産会社を経営する、ごく平凡で真面目な青年だ。特別な権力や財力はないが、品行方正で、友人や後輩からの人望も厚い。

(この男が、柚月の言う『愛する人』か)
蓮は、報告書の隅に添付されていた、結城の笑顔の写真を見つめた。その笑顔は、柚月が彼に惹かれた理由を雄弁に物語っている。優しそうで、飾らない、「説教」とは無縁の光。

蓮は、報告書を一枚一枚めくりながら、心の中で結城篤を断罪していた。
「平凡すぎる」。それが、蓮の結論だった。
「一条呉服問屋の令嬢が、この程度の男との『恋』のために、二階堂家との婚約を破棄しようとするなど、あり得ない」

彼の頭の中は、あくまで「家柄」「品格」「将来性」という冷徹な論理で満たされていた。
(この男には、柚月の未来を保証する力がない。一条家を守ることも、ましてや二階堂家に嫁ぐ柚月を支えることもできない)

蓮は、報告書の最後にあった、バーでの一件に関する警備員の報告書に目を留めた。柚月のカクテルに薬物を入れたのは、どうやら結城篤とは関係のない、単なるバーでのトラブルメーカーだったようだ。しかし、その報告書には、結城が柚月を守りきれなかったという事実だけが残った。

「所詮、この程度の男だ」
蓮は、結城に対する嫉妬を、「柚月を守る資格がない」という合理的な判断にすり替えた。
蓮は、静かに電話を手に取り、秘書を呼び出した。
「明日、一条柚月のいる前で、この報告書を読み上げろ。そして、この男が、一条家の娘の夫としていかに不適格かを、論理的に説明させる」

蓮は、柚月の「愛」を、合理性という剣で打ち砕こうとしていた。それが、彼女のためだと信じながら。

翌日、一条家のリビング。柚月は、蓮、そして彼の秘書である神崎の三人に囲まれていた。
蓮は、いつも通り無表情で、神崎に指示を与えた。
「神崎。報告書を」

神崎は、無駄のない動きで、結城先輩の調査報告書を読み上げ始めた。彼の生い立ち、両親の職業、大学の成績、そして、将来性の欠如。

「……総括として、結城氏は、一条家のような由緒ある家柄の令嬢と結ばれることで、一条家の信用を傷つけ、未来を危うくする可能性が高いと判断されます。特に、財政面での援助の能力は、皆無に等しいかと」
柚月の顔は、みるみるうちに青ざめていった。

「やめてください!」柚月は、声を荒らげた。「蓮さまは、私の好きな人を、ただの道具のように調べて、価値がないと断罪している!」
蓮は、冷たい眼差しを柚月に向けた。

「君の感情論に付き合うつもりはない。これは、君の人生と、一条家の未来に関する合理的判断だ」
「どこが合理的ですか!わたくしは、蓮さまのように愛のない人生は送りたくありません!」
柚月は、涙を浮かべながら、蓮を「愛のない人間」だと決めつけた。

蓮の顔が、僅かに、苦痛に歪んだ。しかし、すぐに彼はその感情を抑え込み、冷徹な仮面を被り直した。
「愛? 君が言う『愛』は、一時の感情に過ぎない。この男は、君を守る力さえ持たない。先日のバーでの一件も、君を危険に晒したという事実は変わらない」

蓮は、柚月が結城に抱く真実の愛を、「一時の感情」だと否定し、結城先輩が柚月を守りきれなかったという結果を盾に、彼を不適格者だと断罪した。
柚月は、もはや反論する言葉を失った。蓮の言葉は、冷酷だが、「一条家の娘」という立場においては、確かに「正論」だったからだ。

蓮は、立ち上がると、最後に柚月に釘を刺した。
「君の青い春の迷いは、もう終わった。私は、君の愛する人を、論理的に不適格だと証明した。君が、彼を諦めるための時間は与えた」
「もう、結構です……」

柚月は、打ちひしがれて、呟いた。
「わたくしの気持ちなど、蓮さまのビジネスの論理の前では、無意味なのですから」
蓮は、柚月のその言葉を聞き、勝利ではなく、敗北を味わっているかのような、深い孤独を瞳の奥に宿した。彼は、最も愛する女性の愛と希望を、自らの手で打ち砕いてしまったのだ。

その瞬間、柚月の心の中の「結城先輩への愛」は、「蓮への憎しみ」と「絶望」に取って代わられた。
そして、この柚月の絶望こそが、二人の間に、最も深い誤解として刻み込まれたのだった。
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