『青い春の迷い星(ステラ)』 ~10歳年上の幼馴染は、一番遠い婚約者~

第八章:孤独な御曹司の過去と、彼の歪んだ愛

柚月が婚約を受け入れてから、二階堂グループと一条呉服問屋の間で、急速に婚約の準備が進められた。しかし、柚月は抜け殻のようになっていた。
蓮への憎しみは増すばかりだが、その憎しみを露わにすることさえ、今は無駄な抵抗だと知っている。彼女は、完璧な「一条家の令嬢」という仮面を被り、感情を押し殺す日々を送っていた。

一方、二階堂 蓮は、柚月の絶望的な降伏を見て、ある種の勝利を得たにもかかわらず、全く満たされていなかった。
彼は柚月の愛する人を論破し、ビジネスの論理で彼女を閉じ込めることに成功した。しかし、柚月の瞳の奥に宿った底なしの悲しみと憎悪は、蓮の心に鋭い痛みを残した。

金曜の深夜。蓮は、一人、高級マンションの最上階にある自室で、冷えたシャンパンを傾けていた。東京のきらびやかな夜景が、彼の孤独を際立たせる。
蓮の人生は、常に「役割」と「期待」で満たされていた。十歳で既に後継者としての教育が始まり、彼の行動、思考、感情の全てが、「二階堂グループの御曹司」という枠組みの中でしか許されなかった。
「……柚月」

蓮がその名を口にするのは、珍しかった。
彼は、ふと、幼い頃の記憶を辿る。まだ彼が「説教」を始める前のことだ。

幼い日

蓮が十歳の誕生日を迎える頃。彼は、二階堂家の厳格な教育に疲れ果て、初めて「逃げたい」と感じていた。そんな時、一条家に遊びに来た彼は、庭先で小さな女の子と出会った。四歳の柚月だ。

柚月は、自分の膝を擦りむいて、一人で蹲っていた。
「痛いよぅ、お母さんには言わないで……」
蓮が、そっと彼女にハンカチを差し出すと、柚月は顔を上げた。その可愛らしい顔には、涙と泥がついていた。
「大丈夫か?」

蓮が訊くと、柚月は首を横に振った。
「お母さんに言うと、『どうして転んだの!品がない!』って怒られるの。だから、言わないで」
蓮は、その時、衝撃を受けた。自分と同じだ、と。

一条家も、二階堂家ほどではないにせよ、「品格」と「役割」で子供を縛っていたのだ。蓮は、四歳の柚月の中に、十歳の頃の自分の孤独な姿を見た。

その日以来、蓮は、柚月に対して異常なまでの関心を持つようになる。
(この子には、完璧でいさせてあげたい。私と同じように、『品がない』と怒られるような目に遭わせたくない)

蓮の歪んだ愛は、ここから始まった。
彼は、自分の行動が「指導」や「説教」という形をとれば、誰も文句を言わないことを知っていた。だから、彼は、柚月が「失敗」や「叱責」から守られるように、先回りして完璧な振る舞いを要求した。

「化粧なんてするな」
「スカート丈を伸ばせ」

彼の愛は、常に「過度な指導」と「支配」という形でしか表現されなかった。それは、「完璧な存在」として生きることを強要された、彼自身の孤独の裏返しだった。

蓮は、シャンパングラスをテーブルに置き、深い溜息をついた。
(私は、君を守るために、指導してきた。君が私と同じ孤独を味わわないように……)

しかし、柚月は、その彼の真意を理解しなかった。当然だ。彼の言葉は常に冷たい正論で、愛情の欠片も含まれていなかったから。

蓮は、柚月の「愛する人」の存在が、彼女の唯一の希望であったことも知っていた。だが、あの男は、柚月を助ける力を持っていなかった。バーでの事件で、蓮は確信した。
(私でなければ、君を守れない。君が憎もうと、君を守り抜くのは、私しかいない)

蓮の愛は、歪んだ支配へと変わっていた。彼は、柚月の家を守る義務を盾に、自分との婚約を強行した。その方が、柚月が家から逃げ出さずに済む、最も安全な道だと信じていたからだ。

「……結局、私は、君に最も憎まれる方法でしか、君を手に入れられなかった」
蓮は、窓ガラスに映る、疲弊した自分の顔を見た。彼は、柚月の愛ではなく、彼女の絶望と憎しみを手に入れたのだ。

土曜日の午後。
柚月は、家の庭の片隅で、一人静かに座っていた。彼女の指先には、結城先輩からもらった小さなテディベアのキーホルダーが握られている。

(もう、先輩に会うことはできないわ。私のせいで、先輩の人生まで調べ上げられた)
柚月は、携帯電話を開いた。結城先輩に、「別れのメッセージ」を送ろうと、震える指で文字を打ち始める。
『先輩。今まで、本当にありがとうございました。私、もう……お会いできません』

その時、背後から、低い声がした。
「一条柚月」
蓮だ。柚月は、慌てて携帯の画面を伏せた。
「蓮さま」
柚月は、静かに立ち上がった。その瞳は、感情を完全に押し殺し、人形のように無表情だ。

蓮は、柚月の手にあるキーホルダーに一瞥をくれた。
「それを捨てなさい。婚約者として、品がない」
柚月は、きつくキーホルダーを握りしめた。これは、彼女の最後の抵抗だった。

「これは、わたくしの自由です。蓮さまには、指図される筋合いはありません」
蓮の目は、深く、冷たくなった。彼は、柚月の感情のない顔を見て、彼女が完全に心を閉ざしたことを悟った。

蓮は、柚月の目の前に立ち、手を伸ばした。しかし、その手は、柚月の頬に触れることはなく、彼女の手元にあるキーホルダーを、乱暴にもぎ取った。
「蓮さま!」
柚月が、反射的に声を上げた。

「無意味な抵抗だ、柚月」
蓮は、キーホルダーを握りつぶすように握りしめると、そのまま庭のゴミ箱に投げ捨てた。
「君は、二階堂 蓮の妻となる。その役目に、私情は不要だ」

蓮の行動は、柚月の最後の希望を、暴力的な支配によって打ち砕いた。
蓮は、柚月の絶望をさらに深めた。彼は、「君を完全に守るため、私にだけ頼ってほしい」という真の願いを、「私に逆らうな」という冷酷な行動でしか示せなかったのだ。

柚月は、蓮の背中を見つめ、心の中で静かに彼への憎悪を誓った。
「あなたなんか、一生、許さない」
そして、蓮の心は、最も愛する女性からの、最も冷たい拒絶によって、深く深く凍り付いたのだった。
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