蝶々結び 【長編ver.完結】
第5章 曇り空とミルクティー
その日の空は、灰色だった。
朝からどんよりとした雲が空を覆い、病棟の窓の向こうに見える街並みは、いつもより色を失っていた。
空気は冷たく、湿っている。冬の前触れのような風が廊下を抜け、カーテンの端をわずかに揺らした。
ナースステーションの片隅で、橘結衣は電子カルテの入力を終え、椅子の背にもたれかかった。
モニターの黒い画面に映る自分の顔が、やけに硬く、無表情に見えた。
(……何してるんだろ、私。)
ふと漏れたため息が、静かな空間に小さく響いた。
陽向先生を避けるようになって、もう一週間が経つ。
理由は、わかっている。
――噂。
あの日、柚希に聞かされた“牽制してるらしい”という言葉。
思い出すたび、胸の奥がざらりと痛む。
別に、彼を嫌いなわけじゃない。
むしろ――。
「……はぁ。」
再びため息を落とすと、視線を窓の外へ向けた。
雲の切れ間から、ほんの少しだけ淡い光がこぼれている。
「雨、降りそう……。」
呟いた声は、誰に向けたわけでもなかった。
だが、その言葉を口にした途端、胸の奥に重い記憶がよみがえる。
――早瀬先生と別れた日のこと。
あの日も、今日と同じように曇っていた。
外の空気は冷たく、濡れたアスファルトの匂いがした。
病院の裏口から飛び出したとき、涙で視界が滲んでいて、行き場もなくただ走った。
どしゃ降りの雨の中、誰かの声を振り切るように。
そして心の中で「もう信じない」と何度も繰り返した。
(……恋なんて、もう二度としないって決めたのに。)
だけど最近、陽向先生の笑顔を見るたび、胸の奥で何かがほどけていくのを感じる。
彼の声、視線、何気ない仕草。
それらが少しずつ、自分の防波堤を静かに崩していくようで、怖かった。
(ダメだよ。もう、傷つきたくない。平穏でいたいのに。)
そう言い聞かせても、廊下で彼の足音を聞くだけで、心臓が跳ねる。
「橘さん」と呼ばれた声が背中に届くたび、無意識に立ち止まってしまう。
ほんの一言のやり取りに、一日中気持ちを引きずってしまう。
(……情けない。)
呟いても、苦しさは消えなかった。
こんなに乱されるなんて、自分らしくない。
もしこのまま、噂が広がり続けるなら――。
(ちゃんと、伝えなきゃ。)
彼に誤解を与えたままではいけない。
彼のためにも、自分のためにも。
ナースステーションの時計の針が、午後五時を過ぎたことを告げる。
日勤の終わりを知らせるように、館内放送が静かに流れた。
「今日もお疲れさまでした。」
先輩看護師たちの声が行き交い、交代の準備をする音が続く。
結衣はカルテを閉じ、白衣の袖を整えた。
胸の奥はまだざわついているけれど、とりあえず今日一日を終えることに安堵した。
ナースステーションを出て、ロビーへ向かう。
外来の患者が引いた後のロビーは広く静かで、どこか物寂しかった。
窓の外には、薄暗い空と濡れたアスファルト。
少し前まで降っていた雨が、ガラス越しに小さな滴を残していた。
自販機の前に立ち、「あたたかい ミルクティー」のボタンを押す。
カタン、と音を立てて落ちてきた紙カップを手に取り、両手で包み込む。
じんわりと伝わる温もりに、心が少しだけほぐれた。
「……甘い匂い。」
ふっと笑みが漏れる。
この瞬間だけは、仕事のことも噂のことも忘れられる気がした。
ソファに腰を下ろし、ミルクティーをひと口すする。
ほのかな甘みが舌に広がって、冷えた心を少し溶かした。
(もう少しだけ……休んでから帰ろう。)
ふぅっと息を吐き、ソファにもたれかかる。
柔らかいクッションが背中を支え、瞼がゆるやかに重くなりうとうとしていた。
ロビーには時計の音だけが響いている。
そのとき――。
柔らかな足音が近づいてくるのに気づいた。
「……橘さん?」
その落ち着いた声に、頭がぼんやりと反応する。
――陽向先生だ。
ゆっくりと顔を上げると、目の前に彼の顔があった。
不意打ちに近い距離。
思わず息が詰まる。
「あ、熱っ!」
慌てて手に持っていたカップを傾けてしまい、ミルクティーが少しこぼれた。
右手の小指に熱い痛みが走る。
「わっ、大丈夫!?」
陽向先生がすぐに身を乗り出した。
「ごめん、僕が驚かせたから!」
「い、いえ……だいじょ――っ、痛っ……!」
痛みに顔をしかめる結衣の手を、陽向がそっと取る。
「とりあえず冷やそう。動かないで。」
その声は冷静で、だけどどこか焦っていた。
結衣は呆然としたまま、されるがままに立ち上がる。
陽向先生は結衣の手を軽く握ったまま、人気のない外来の診察室へと連れて行った。
朝からどんよりとした雲が空を覆い、病棟の窓の向こうに見える街並みは、いつもより色を失っていた。
空気は冷たく、湿っている。冬の前触れのような風が廊下を抜け、カーテンの端をわずかに揺らした。
ナースステーションの片隅で、橘結衣は電子カルテの入力を終え、椅子の背にもたれかかった。
モニターの黒い画面に映る自分の顔が、やけに硬く、無表情に見えた。
(……何してるんだろ、私。)
ふと漏れたため息が、静かな空間に小さく響いた。
陽向先生を避けるようになって、もう一週間が経つ。
理由は、わかっている。
――噂。
あの日、柚希に聞かされた“牽制してるらしい”という言葉。
思い出すたび、胸の奥がざらりと痛む。
別に、彼を嫌いなわけじゃない。
むしろ――。
「……はぁ。」
再びため息を落とすと、視線を窓の外へ向けた。
雲の切れ間から、ほんの少しだけ淡い光がこぼれている。
「雨、降りそう……。」
呟いた声は、誰に向けたわけでもなかった。
だが、その言葉を口にした途端、胸の奥に重い記憶がよみがえる。
――早瀬先生と別れた日のこと。
あの日も、今日と同じように曇っていた。
外の空気は冷たく、濡れたアスファルトの匂いがした。
病院の裏口から飛び出したとき、涙で視界が滲んでいて、行き場もなくただ走った。
どしゃ降りの雨の中、誰かの声を振り切るように。
そして心の中で「もう信じない」と何度も繰り返した。
(……恋なんて、もう二度としないって決めたのに。)
だけど最近、陽向先生の笑顔を見るたび、胸の奥で何かがほどけていくのを感じる。
彼の声、視線、何気ない仕草。
それらが少しずつ、自分の防波堤を静かに崩していくようで、怖かった。
(ダメだよ。もう、傷つきたくない。平穏でいたいのに。)
そう言い聞かせても、廊下で彼の足音を聞くだけで、心臓が跳ねる。
「橘さん」と呼ばれた声が背中に届くたび、無意識に立ち止まってしまう。
ほんの一言のやり取りに、一日中気持ちを引きずってしまう。
(……情けない。)
呟いても、苦しさは消えなかった。
こんなに乱されるなんて、自分らしくない。
もしこのまま、噂が広がり続けるなら――。
(ちゃんと、伝えなきゃ。)
彼に誤解を与えたままではいけない。
彼のためにも、自分のためにも。
ナースステーションの時計の針が、午後五時を過ぎたことを告げる。
日勤の終わりを知らせるように、館内放送が静かに流れた。
「今日もお疲れさまでした。」
先輩看護師たちの声が行き交い、交代の準備をする音が続く。
結衣はカルテを閉じ、白衣の袖を整えた。
胸の奥はまだざわついているけれど、とりあえず今日一日を終えることに安堵した。
ナースステーションを出て、ロビーへ向かう。
外来の患者が引いた後のロビーは広く静かで、どこか物寂しかった。
窓の外には、薄暗い空と濡れたアスファルト。
少し前まで降っていた雨が、ガラス越しに小さな滴を残していた。
自販機の前に立ち、「あたたかい ミルクティー」のボタンを押す。
カタン、と音を立てて落ちてきた紙カップを手に取り、両手で包み込む。
じんわりと伝わる温もりに、心が少しだけほぐれた。
「……甘い匂い。」
ふっと笑みが漏れる。
この瞬間だけは、仕事のことも噂のことも忘れられる気がした。
ソファに腰を下ろし、ミルクティーをひと口すする。
ほのかな甘みが舌に広がって、冷えた心を少し溶かした。
(もう少しだけ……休んでから帰ろう。)
ふぅっと息を吐き、ソファにもたれかかる。
柔らかいクッションが背中を支え、瞼がゆるやかに重くなりうとうとしていた。
ロビーには時計の音だけが響いている。
そのとき――。
柔らかな足音が近づいてくるのに気づいた。
「……橘さん?」
その落ち着いた声に、頭がぼんやりと反応する。
――陽向先生だ。
ゆっくりと顔を上げると、目の前に彼の顔があった。
不意打ちに近い距離。
思わず息が詰まる。
「あ、熱っ!」
慌てて手に持っていたカップを傾けてしまい、ミルクティーが少しこぼれた。
右手の小指に熱い痛みが走る。
「わっ、大丈夫!?」
陽向先生がすぐに身を乗り出した。
「ごめん、僕が驚かせたから!」
「い、いえ……だいじょ――っ、痛っ……!」
痛みに顔をしかめる結衣の手を、陽向がそっと取る。
「とりあえず冷やそう。動かないで。」
その声は冷静で、だけどどこか焦っていた。
結衣は呆然としたまま、されるがままに立ち上がる。
陽向先生は結衣の手を軽く握ったまま、人気のない外来の診察室へと連れて行った。