蝶々結び 【長編ver.完結】

第4章 噂と秋のはざま

――風が冷たい。

 朝、ナースステーションへ向かう廊下の窓から見える銀杏の葉が、ゆっくりと色を変えていた。
 夏の終わりを惜しむように残っていた蝉の声も、今では遠くかすれて、代わりに秋の虫の音が夜を包みはじめている。

 外気を感じるたびに、空気の質が変わったとわかる。
 熱気を孕んだ風は消え、どこか乾いた冷たさが頬を撫でた。

 橘結衣は体温計を手に、病室の温度設定を確認していた。
 どの病室でも、風邪を引く患者がぽつぽつと出てきている。
 白いカーテンの向こうでは、微かな咳の音が重なっていた。

「寒暖差が大きいですね。」

 つい口に出た呟きに、ベッドの上の女性患者が小さく笑う。

「看護師さんたちの方が大変でしょ?いつもありがとうね。」

 その優しい声に、結衣はマスクの下で微笑んだ。
「こちらこそ。体調崩さないように気を付けてくださいね。」

 言葉に温度を込めながら、そっと毛布の端を整える。
 看護の現場は季節に敏感だ。暑ければ汗、寒ければ震え。
 誰かの呼吸や表情が、季節の変わり目を一番に教えてくれる。







 気づけば、時計の針は昼を過ぎていた。
 ナースコールの連続、点滴交換、採血、処方確認――。
 目まぐるしい時間の中で、昼休みの存在すら忘れていた。

「バタバタだったねぇ~……。」

 柚希の声が、休憩室の空気をふわりとゆるませた。
 ソファに沈み込むように座り込み、肩をぐるぐる回している。

「疲れたぁ……マッサージ行きたい……。」

 彼女のぼやきを聞きながら、結衣はコンビニのおにぎりを開いた。
「ほんと、寒くなってきたし体調崩す人増えてきたね。」

 温かい緑茶のペットボトルを開ける音が、静かな部屋に響く。
 結衣は湯気のように広がる緑茶の香りに、ほんの少しだけ安堵した。

「ねぇ~最近、陽向先生とどーなの?」

 ――その言葉に、手が止まる。

「……どうって?」

 できる限り平静を装いながらも、心臓がひとつ跳ねたのを自覚する。
 おにぎりを包むフィルムが、指先でくしゃりと音を立てた。

「えー?何もないわけないでしょ。最近、よく一緒にいるじゃん。」

「業務上、必要なだけよ。」

「ほんとにぃ~?」

 柚希は机に肘をつき、悪戯っぽく結衣を覗き込む。
 その視線がくすぐったくて、結衣はわずかに目を逸らした。

「柚希の期待するようなこと、何もないよ。」

「ふぅん?」
 唇を尖らせた柚希が、にやりと笑う。
「結衣ってさ、ほんとモテるのに自覚ないよねぇ。」

「いや、モテるとかモテないとか、どーでもいい。」

「どーでもよくないよ!だってさ――」

 柚希の声が、突然弾んだ。

「あ!ねぇ、あの噂、知らないの?」

「……噂?」

 結衣は顔を上げた。
「え、何の話?」

 柚希はわざとらしく溜めて、声を潜める。
 その表情は、明らかに“話したくて仕方ない”顔だ。

「他の科の先生達がね、結衣のこと狙ってたらしいんだけど……
 でも、陽向先生が“牽制してる”って最近噂になってるの!」

「…………は?」

 おにぎりの欠片が喉に詰まりそうになった。
「ちょ、ちょっと待って、それどういう意味?」

「だからぁ~、陽向先生が“橘さん、そういう軽い人じゃないからやめなよ”って言ってくれたりとか!
 もう、キャーって感じじゃない?」

「キャーじゃない!やめてよ、そんなの……!」

 結衣は顔を真っ赤にして立ち上がる。
「なんで私なのよ!?」

「だって実際、陽向先生が結衣のこと気にしてるんだもん。
 あれ、完全に脈ありだよ~。」

「……信じられない。噂とかほんと無理……。」

 結衣は顔を覆ってうなだれた。
「ただでさえ変な誤解とか嫌なのに……。仕事休みたい……。」

 柚希はケラケラ笑いながら、
「珍しいー!結衣、照れてる~!」と茶化してくる。

「陽向先生、絶対本気だって。あの人、そんなふわふわしてるタイプじゃないもん。」

「もう、やめてってば……。」

 結衣は小声で呟いたが、頬の熱はなかなか引かなかった。







 それから数日。
 結衣は、陽向先生と出くわすたびに気まずくなっていた。
 会話もぎこちなく、以前のように自然に笑えない。

 ――意識している。
 その事実を、自分が一番分かっているから苦しい。

 ナースステーションで患者のデータを入力していると、
 背後からあの穏やかな声がした。

「橘さん、昨日の310号室の患者さん、点滴量調整してくれてありがとう。助かったよ。」

「……いえ、仕事なので。」

 結衣はパソコンから目を離さずに答える。
 指先の動きが、いつもよりぎこちない。

「あれ~?相変わらずそっけないなぁ。」

「そんなことありませんよ。」

「そう?なんか避けられてる気がするんだけど。」

 陽向が笑いながら、モニター越しに覗き込む。
 その距離が近くて、結衣は息を詰めた。
 頬にかかる彼の気配。
 あの柔らかい声が、こんなに近い。

「……別に、そんなことないです。」

 言葉とは裏腹に、ほんの少しだけ後ろへ下がってしまう。
 陽向は眉を下げて、「ふ~ん、そっか」と微笑んだ。
 その笑顔が、以前より少しだけ寂しそうに見えた。

 彼が去ったあとも、胸の奥でざらりとした感情が残る。
 ――どうしてこんなに、苦しくなるんだろう。







 夜――。

 帰宅後、窓の外では風が枯葉を転がしていた。
 コートの襟を立ててベランダに出ると、空気がすうっと肺に冷たくしみこんだ。
 街の灯りが遠く霞んで、冬の入り口を告げている。

 息を吐くと、白く濁った空気が空に消えていく。
 その儚さが、まるで自分の心のようだった。

 ――陽向先生の噂。

 もし、それが本当だったら。
 もし、あの笑顔がただの職場の優しさじゃないのだとしたら。

 考えるだけで、胸の奥が妙にざわめいた。
 心の奥で、静かに波が立つ。

 彼が他の誰かと話している姿を見たとき、
 自分でも驚くほど胸が痛んだ。
 それが何の感情なのか、まだ認めたくなかった。

 風が頬をなでる。
 指先が少し冷たくなっていく。

「……ばか。」

 呟いた声が、風に溶けた。
 けれど、頬をかすめた風はなぜか温かかった。
 まるで、彼がそこにいて微笑んでいるような気がして。

 結衣は目を閉じた。
 まぶたの裏に、あの夏の日の笑顔が浮かぶ。
 真剣な瞳と、不器用な優しさ。
 それがまた、心を静かに揺らした。

 ――これが恋だなんて、まだ言えない。
 でも、もう後戻りできない気がしていた。
< 9 / 28 >

この作品をシェア

pagetop