あなたと私を繋ぐ5分
 それからは、その小説の主人公のように、日々の生活のなかで幸せのかけらを探し始めた。
 良かったこと、嬉しかったこと。視点を変えればマイナスからプラスになること。

 それは灰色の一日を、自分の力で色鮮やかに変えていくような作業だった。

 だが、どれだけ幸せのかけらを集めても、それを伝えるべきひとがいない。恋人と別れてから、女性に対してだけはいっそう臆病になった。

 こんな自分のことを好きだと言ってくれる人は、俺の内面を見てはいないだろう。
 だってもし内面まで見ていたら、好きになんてならないだろうから。

 そう思うと、告白されてもその気持ちを信じることができなかった。結局、マインドを変えようとしても、表向きには何も変わらないまま日常が過ぎていく。

 それではまずいと思ったとき、ふと流れてきたのがポッドキャストの配信番組だった。
 ラジオと違い、プロでなくとも――いわば素人でも配信できる番組。動画配信サービスの音声版とでもいうのだろうか。それなら、自分でもできるのではないか、と思った。

 いつか、大切なひとに出会った時、今度こそきちんと気持ちを伝えられるように。
 こんな素人の短い喋りなんて、誰が聞いているかわからない。それでも自分の感じたことを素直に伝える練習になればいい。そう思って、一歩踏み出した。
 潮騒。
 寄せては返す波のように。
 ひとりで淡々と練習のために続けてきたポッドキャストを、まさか伝えるべき当人が聞いているなんて。


 名前も知らない女性社員だった。

 その日の朝、どうしても確認したい資料があって、鷺沼はダメ元で総務部を訪ねた。
 鍵を無断拝借することはできないが、誰もいなかったらその場で総務部長に電話して、なんとか借りられないかと直談判しようかと考えていた。しかし、覗いた総務部にはすでに人影があった。
 ほのかなコーヒーの香りが漂ってくる。どうやら出社している社員が飲んでいるようだ。

 それにしても早いな、と思いながら、
「すまないが、今の時間でも資料保管庫の鍵はかりられるだろうか?」
 そう声をかけると、デスクにいた女性は、慌てたように席を立った。

「申し訳ありません。端末が起動するまで少々お待ちいただけますか?」

 そう言いながら、カウンターに設置されたタブレットを操作している。始業前に余計な作業をさせてしまったことを申し訳なく思い、
「悪いな、こんな早くに」と謝ると、女性は短く首を横に振った。

 端末が立ち上がるのを待っている間、彼女はまったく視線を上げなかった。

 デスクにいたときの横顔しか確認できていない。彼女が首からかけた社員証を、目を細めて見ると『藤宮美咲』という名前が確認できた。

 トントントンとカウンターを叩く指先から、焦りが感じられて、申し訳なさが湧き上がる。こちらの都合だというのに、どうも威圧感を与えてしまうらしい。
< 24 / 33 >

この作品をシェア

pagetop