私があなたを好きだということだけ知っていてくれたら、それでいい。(うそ、本当はあなたの一番になりたい)

第二話

 九月の、湿気を帯びた暑さがまだ残る日のこと。

「ねえねえ、(あおい)
「なに?」
「もうすぐ文化祭でしょ。どうするの?」
「どうするって……あー」

 友達の夢花(ゆめか)に言われて思い出した。彼女には最近、彼氏が出来たのだ。例年は一緒に回っていたが、今年は当然彼氏と回ると言っていた。夢花は丸い大きな目をくりくりさせ、小首をかしげている。それに合わせて茶色い手入れの行き届いたボブが揺れた。
 私は苦笑しながら答える。

「今年はてきとうに回るよ」
「え、ひとりで?」
「うん、ひとりで」

 夢花は納得いっていない顔だ。けれど、残念ながら私は彼女のように誰にでも声をかけられるような性格ではない。普段さほど仲良くしていない人と一緒に回るくらいなら、ひとりの方がよっぽどましだ。
 だが、夢花はどうしても私をひとりにはしたくないらしい。

「なら、私たちと一緒に回ろうよ?」
「え? いや、いいよ。カップルの邪魔なんてしたくないから」
「邪魔じゃないって! それに、実は彼の友達も一緒に回る予定なの。正直、三人で回るのは気まずいと思っていたから、葵がいてくれたら助かるんだけど……」
「そういうことなら、まあ。……っていうか、その友達とやらって空気読めない人なの?」
「ちがうちがう! むしろ反対っていうか……それがね……ここだけの話なんだけど。その友達、最近失恋しちゃったらしくて、大我(たいが)ってそういうのほっとけない性格でしょ? だから、この文化祭で元気つけてあげたいんだって」
(それってむしろ逆効果なのでは? 失恋したばかりの人に、ダブルデートは酷じゃない? しかも片方は本物のリア充)
 と思いつつ、口には出せなかった。

 そういう強引なところが、夢花と山田(やまだ)君のいいところでもあるからだ。

「なるほどね……でも、それなら尚更私みたいな静かなタイプじゃない方がいいと思うけど」
「ううん! 私は彼と葵って合うと思うの!」
(いったい、その自信はどこから出てくるの?)
「ふーん。まあ、いいよ。別に断る理由もないし」
「ありがとう!」

 私の手を両手で挟み、満面の笑みをこぼした夢花。その笑みが、あの時の衝撃をフラッシュバックさせるきっかけへと繋がるとは、この時の私は知る由もなかった。

 ◇

「で、こいつが五十嵐拓人」
「こっちの子が姫川(ひめかわ)葵ね」
「よろしくお願いします」
「あ、はい」

 つい冷たい返事になってしまった。が、さすがは物腰が柔らかく紳士的な男子生徒だと有名な五十嵐君だ。嫌な顔一つせず、ほほ笑んでいる。ただし、その目には友好的な色も宿ってはいないけれど。
(一応、私一年の頃、同じクラスだったんだけどな……)
 とはいえ、覚えられていなくても仕方ない。彼は山田君のようなクラスを率先してまとめようとするタイプではないけれど、気づけばいつのまにか委員長に選ばれているタイプの人間だ。私のような教卓の前に座っていても気づかれにくいタイプとは違う。

 それにしても気まずい。いや、勝手に気まずく思っているのは私だ。あの日、赤いスポーツカーから彼が降り、泣いているのを見た後ろめたさから視線が合わせられない。
 それが、彼にも伝染しているのだろう。

 ぎこちない空気の中、最初は男男、女女で並んで歩き始める。しかし、しばらくしたらいつのまにか男女、男女の並びに変わっていた。
(仕方ないか。もともと夢花と山田君は二人で回る予定だったんだもんね)

「すみません」
「え」

 いきなり話しかけられ、驚いた。何に対しての謝罪かわからず首を傾げる。

「僕の勘違いだったらアレなんですけど……姫川さんは大我たちから半強制的に参加させられたんでは? 」
「あー……うん、まあ。でも、それで五十嵐君が謝るのは違うと思うけど……。五十嵐君からしたら余計なおせっかいだっただろうし。まあでも私も、もともとひとりで回るつもりだったから、むしろ助かったというか」
「あ、僕の話も知って……いえ、助かったというのならよかったです」
「う、うん」
 言葉を濁し、気まずげな五十嵐君。どうにかして雰囲気を変えようと、別の話題を振った。

「そういえばさ、私と五十嵐君って一年の頃同じクラスだったんだけど、覚えて……ないよね?」
「……すみません」
「いやいや、頭下げないで! 同じクラスっていってもまともに話したこともなかったから」

 先ほどよりも眉尻が下がった顔で「すみません」と何度目かわからない謝罪を呟く五十嵐君。

「僕、人の顔を覚えるのが苦手で……」
「大丈夫大丈夫。私だって、一年のクラスメートの名前全員言え、って言われたら無理だから。それに、五十嵐君みたいな目立つタイプならともかく、私みたいな地味なのは尚更……」
「地味ではないと思いますけど」
「え」

 真剣な表情の五十嵐君と目があい、固まる。嘘は言っていないのだろう。でも、その優しさが今は少しつらい。苦笑しながら「ありがとう」と返す。そして、前を見た。

「ねえ、そろそろいいんじゃないかな」
「え?」
「あの二人、後は二人にしてあげようよ」
「あ、ああ。そうですね」
「じゃあ……夢花!」

 夢花がこちらを振り向く。その瞬間、五十嵐君の腕を引き寄せた。驚いている五十嵐君を無視して、夢花に「別行動しよう!」と告げる。夢花は目を開き、嬉しそうに笑って「うん!」と手を上げた。

 五十嵐君を連れて、夢花たちとは逆方向へ進む。五十嵐君はされるがままだ。しばらく歩いてから手を離した。

「いきなりごめんね」
「いえ。むしろ、いつ抜け出すべきか迷っていたので助かりました」
「ならよかった。で、どこ行く?」
 内心「ここで解散で」と言われたらどうしようと不安だったが、五十嵐君はそうは言わなかった。
「そうですね。でしたら、ここはどうでしょう?」
 五十嵐君がパンフレットを広げ、一か所を指さす。その場所にあるのは美術部の展示だ。思わぬ場所に、私は目を瞬かせた。

 美術部の展示があるのは校舎の端だ。人が多く集まるだろう場所は、お化け屋敷や喫茶店などの賑やかなクラスの出し物に使われている。
 展示するだけなので係りを置かなくていいそこは、人も少なく、とても静かだった。
(つまらないと思われたらどうしよう)
 というのは私の杞憂だったらしく、五十嵐君は興味津々で一つ一つ展示品を眺めている。
 そして、五十嵐君はひとつの絵の前で止まった。

「この絵」
「……うん」

 としか言えない。
 道中で話そうと思えば、話せたはずだけれど、どんな反応をされるかわからなくて私はあえて黙っていた。
 五十嵐君が見ている絵は私が描いたものだ。食い入るように見つめられて、頬が熱くなる。
 けれど、その横顔に切なさが滲んでいるのに気づいて、熱は一気に冷めていった。

 私も、彼が見つめる己の描いた絵を見る。タイトルは『夜の海』。以前、兄にドライブに連れ出された際に見た、月明かりが暗い水面に反射する光景を描いたものだ。
(もしかして……五十嵐君はあの赤いスポーツカーの女性と行ったことがあるのかな)
 その風景が頭の中で鮮明に浮かび上がり、胃のあたりがきゅうっと痛くなった。
 痛みを強引に打ち消すように、明るい声を発する。

「五十嵐君。この絵、気に入ったの?」
「……はい。それにしても、姫川さんって美術部だったんですね」
(嘘つき。気に入ったのならそんな顔しないでしょ)
 と思いながらも、「実はそうなの」と笑って返した。

 展示室を出て、私は高めのテンションのまま五十嵐君と一通り回った。夢花がこの場にいたらすぐ異変に気づいただろうが、ほぼ初絡みの五十嵐君は気づけなかっただろう。そのまま、なんとなくの流れで連絡を交換し、私たちは別れた。
 夜、浮かれた声の夢花から『どうだった?』と連絡がきた。その時、「ああ。夢花たちはそういう狙いもあって、私と彼を誘ったのか」と理解した。
 私は、「五十嵐君とは連絡交換した」という事実だけを伝えた。しかし、夢花はそれを脈ありと捉えたようで、なぜかそれ以降、山田君と夢花が「恋のリハビリ作戦」と称して私たちを誘い、四人で遊ぶことが増えた。

 そんな穴だらけの作戦に私は満々とはまった。五十嵐君を知れば知るほど、好きになっていったのだ。彼の心にはまだあの赤い口紅の女性が居座っていることに気づいていたのに。もう、引き返すことはできなかった。
 そして、五十嵐君への気持ちが抑えられないほどに膨れ上がった頃、神様は私にプレゼントをくれた。とても、意地悪なサプライズプレゼントを。

 その日、私は彼に気持ちを伝えるつもりでいた。いつものように最初四人で遊び、二人になったところで言うつもりだった。

「五十嵐君。ちょっとゆっくり話せるところに行きたいんだけど、いいかな?」
「それはかまいませんが……どちらに……」

 五十嵐君の視線が私を通り越し、一点を見て固まった。つられて振り向く。そして、私の呼吸も止まった。
 五十嵐君の視線の先にいたのは、あの女性だった。ただし、彼女は一人ではない。隣には、いかにも裕福そうなスーツを着た男性。二人の左手の薬指には、揃いの指輪が光っている。どんな関係かなんて聞くまでもなかった。

 その瞬間、フラッシュバックした。
 赤いスポーツカーと同じ、赤い口紅。
 一筋の涙を流した五十嵐君の姿。
 今、鮮明に思い出した。

(こんなところで、見ている場合じゃない!)

「五十嵐君、はやく!」
 と、強引に彼の腕を引き、その場から歩みを進める。
「あ、は、はい」

 目の前から来ているカップルを視界に入れないよう、まっすぐ前だけを見る。もしかしたら、隣の五十嵐君は彼女を見ているかもしれない。足がさらに速くなる。
 早く、遠ざからなければ、あのカップルから。その一心だった。
 どれくらい歩いたのだろう。五十嵐君に声をかけられ、足を止める。

「姫川さん、行先は決まっているんですか?」
「あ、ごめん……」
 何も考えていなかった。と、皆まで言わずとも五十嵐君は理解し、スマホを開いた。
「少し待ってくださいね」

 スマホで近場の喫茶店を検索をする。一番近い店、私たちはそこへと向かった。
 落ち着いた外装。扉を開ければ、洒落たBGMが聞こえてくる。大人っぽい彼にぴったりの雰囲気だ。けれど、自分には似合わない気がして、入るのを戸惑う。
 五十嵐君は、「大丈夫ですよ」とでもいうように、私の手を引き、店の中に導いた。

 意外にも、五十嵐君は自分から彼女について話し始めた。
「あの方が……昔、僕が好きだった方なんです」
 まさか、教えてくれるとは思わず、驚いて目を丸くする。
「元気そうで……幸せそうで、よかったです」
「え……」

 五十嵐君はコーヒーカップを両手で抱え、暗い水面の中を覗き込むようにじっと見つめ、ほほ笑んだ。その笑みはどこか自虐的で、今にも消えそうな儚さも併せ持っていた。そう、ほほ笑んでいるのに、あの日涙を流していた時と同じくらい傷ついているように……私には見えた。

「本当に、そう思ってるの?」

 気づけば、そんな言葉が口から漏れていた。
 五十嵐君は口角を上げたまま、首をかしげる。

「ええ、もちろんです」
「本当に? そんな、今にも泣きそうな顔してるのに?」
「それは姫川さんの勘違いですよ」
「勘違いじゃない!」
「いいえ。そもそも、姫川さんは僕のことをたいして知らないでしょう?」

「あなたに、僕の何がわかるんですか」というような突き放したような言葉と視線。胸がぎゅううと締め付けられる。が、次の瞬間、五十嵐君は我に返り、「すみません」と謝ってきた。

「あ、謝らなくていい! 私が五十嵐君のこと知らないのは本当なんだから。でも、だからこそ、私は知りたいと思ってる。私は五十嵐君のことが……好きだから」
 五十嵐君の目が大きく見開かれる。
「……あ、す、みません。僕は……」
「わかってる、わかってるから謝らないで。ただ、私の気持ちを知ってほしかっただけだから。返事は、いらないから」
「は、はい……」

 無言が続く中、私は冷め切ったコーヒーを一気に飲み干した。そして、震える声で「今日はもう解散で!」と言って、その場から逃げた。
 家に帰ってから反省した。あれはかなりの悪手だったと。
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