君を守る契約
(……お水、飲もう)
ため息まじりにベッドを抜け出し、薄暗い廊下へと足を進めた。
すると廊下の奥、キッチンの前に人影があった。
「……っ」
驚きで立ち止まった私を、
その人影がゆっくり振り返る。間接照明の光が、彼の横顔を優しく照らした。
「琴音?」
低くて眠気を含んだ声。黒いTシャツの裾を片手で押さえ、もう片方の手には飲みかけのグラスを持っていた。
「す、すみません。起こしちゃいました?」
「いや、なんだか寝れなくて」
その一言が、思いもよらないほど胸に響いた。
「琴音こそ、どうした?」
「……私も、眠れなくて」
そう答えた瞬間、どちらからともなく視線が絡み、なぜか呼吸が少しだけ浅くなる。宗介さんはゆっくり水を飲み、グラスをカウンターに置いてから、ほとんど自分に言い聞かせるように呟いた。
「不思議だな。ほんの数日一緒に寝ただけなのに、元に戻ったらなんだか落ち着かなくて」
ハッと顔を上げると、彼は少し照れたように目を逸らした。
「私だけかと思いました」
言葉の意味は、簡単なのに深い。沈黙が落ちた廊下で、彼は一歩、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。
そして、すぐ目の前まで来ると迷うような表情で口を開いた。
「琴音」
優しい声だった。
「……もし嫌じゃなければ。今夜だけ、隣で寝てくれないか?」
瞬間、息が止まった。
“嫌じゃなければ”
“今夜だけ”
慎重すぎるほど慎重に選ばれた言葉なのに、彼の瞳の中には、抑えきれない切実さが滲んでいた。
「一度一緒に寝たら、隣に誰かがいるってこんなに安心するものなんだなって」
普段の宗介さんらしくない言葉に胸がぎゅっと締めつけられる。
体がじんわり熱くなるのに、涙がこぼれそうになるのはなぜだろう。
「……琴音が嫌じゃなければ、でいい」
その言い方が優しくて、温かくて。心のどこかが静かにほどけていった。気づけば私はゆっくりと首を縦に振っていた。
「……はい」
彼の肩の力がふっと抜け、安堵したように微笑む。
「じゃあ……行こうか」
廊下の空気はひんやりしているのに、宗介さんの隣を歩くと胸の奥だけがじんわり熱かった。
寝室のドアが静かに開く。昨日と同じ、柔らかい間接照明が室内を照らし、大きなキングサイズのベッドがゆったり横たわっていた。宗介さんは少しぎこちなく笑う。
私は昨日までと同じ右側に無意識に向かっていた。そして彼も自然と左側にいた。
彼は私がベッドに入りやすくるよう布団を持ち上げてくれる。私はそっと布団に入ると、ひやりとしたシーツが肌を撫でる。その隣で、宗介さんもゆっくりと横になった。
「……電気、少し暗くするね」
照明がひと段階落ち、やわらかい光だけが枕元に残る。
ふたりの呼吸だけが、静かに部屋を満たした。何かを言うでもなく、ただ隣にいるだけで胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
やがて、宗介さんがふっと少しだけ近づいた。それは触れるわけではない。けれど、手を伸ばせば届いてしまう距離。
「……ちゃんと眠れそう?」
その声は、驚くほど優しい。
「はい。なんか……落ち着きます」
「よかった」
ほんの一言なのに、その言い方があまりにも穏やかで胸に沁みた。
しばらくすると宗介さんの呼吸が、ゆっくりと一定になる。規則正しく、深くて、温かい呼吸。その音が、どうしようもなく心地よかった。胸の奥がほぐれていくようで、張り詰めていたものが静かにほどけていく。
隣にいるのは“契約した夫”のはずなのに。
触れ合ってもいない。
何を交わしたわけでもない。
けれど、彼の息遣いがすぐそこにあるだけで、まるで心に布団をかけられたみたいに安心する。
こんな感覚、今まで生きてきて一度もなかった。
まぶたが重くなる。そのわずかな間にも、宗介さんの呼吸が聞こえる。その呼吸に誘われるように私はすとん、と眠りに落ちていった。
ため息まじりにベッドを抜け出し、薄暗い廊下へと足を進めた。
すると廊下の奥、キッチンの前に人影があった。
「……っ」
驚きで立ち止まった私を、
その人影がゆっくり振り返る。間接照明の光が、彼の横顔を優しく照らした。
「琴音?」
低くて眠気を含んだ声。黒いTシャツの裾を片手で押さえ、もう片方の手には飲みかけのグラスを持っていた。
「す、すみません。起こしちゃいました?」
「いや、なんだか寝れなくて」
その一言が、思いもよらないほど胸に響いた。
「琴音こそ、どうした?」
「……私も、眠れなくて」
そう答えた瞬間、どちらからともなく視線が絡み、なぜか呼吸が少しだけ浅くなる。宗介さんはゆっくり水を飲み、グラスをカウンターに置いてから、ほとんど自分に言い聞かせるように呟いた。
「不思議だな。ほんの数日一緒に寝ただけなのに、元に戻ったらなんだか落ち着かなくて」
ハッと顔を上げると、彼は少し照れたように目を逸らした。
「私だけかと思いました」
言葉の意味は、簡単なのに深い。沈黙が落ちた廊下で、彼は一歩、ゆっくりとこちらへ歩み寄る。
そして、すぐ目の前まで来ると迷うような表情で口を開いた。
「琴音」
優しい声だった。
「……もし嫌じゃなければ。今夜だけ、隣で寝てくれないか?」
瞬間、息が止まった。
“嫌じゃなければ”
“今夜だけ”
慎重すぎるほど慎重に選ばれた言葉なのに、彼の瞳の中には、抑えきれない切実さが滲んでいた。
「一度一緒に寝たら、隣に誰かがいるってこんなに安心するものなんだなって」
普段の宗介さんらしくない言葉に胸がぎゅっと締めつけられる。
体がじんわり熱くなるのに、涙がこぼれそうになるのはなぜだろう。
「……琴音が嫌じゃなければ、でいい」
その言い方が優しくて、温かくて。心のどこかが静かにほどけていった。気づけば私はゆっくりと首を縦に振っていた。
「……はい」
彼の肩の力がふっと抜け、安堵したように微笑む。
「じゃあ……行こうか」
廊下の空気はひんやりしているのに、宗介さんの隣を歩くと胸の奥だけがじんわり熱かった。
寝室のドアが静かに開く。昨日と同じ、柔らかい間接照明が室内を照らし、大きなキングサイズのベッドがゆったり横たわっていた。宗介さんは少しぎこちなく笑う。
私は昨日までと同じ右側に無意識に向かっていた。そして彼も自然と左側にいた。
彼は私がベッドに入りやすくるよう布団を持ち上げてくれる。私はそっと布団に入ると、ひやりとしたシーツが肌を撫でる。その隣で、宗介さんもゆっくりと横になった。
「……電気、少し暗くするね」
照明がひと段階落ち、やわらかい光だけが枕元に残る。
ふたりの呼吸だけが、静かに部屋を満たした。何かを言うでもなく、ただ隣にいるだけで胸の奥がじんわりと温かくなっていく。
やがて、宗介さんがふっと少しだけ近づいた。それは触れるわけではない。けれど、手を伸ばせば届いてしまう距離。
「……ちゃんと眠れそう?」
その声は、驚くほど優しい。
「はい。なんか……落ち着きます」
「よかった」
ほんの一言なのに、その言い方があまりにも穏やかで胸に沁みた。
しばらくすると宗介さんの呼吸が、ゆっくりと一定になる。規則正しく、深くて、温かい呼吸。その音が、どうしようもなく心地よかった。胸の奥がほぐれていくようで、張り詰めていたものが静かにほどけていく。
隣にいるのは“契約した夫”のはずなのに。
触れ合ってもいない。
何を交わしたわけでもない。
けれど、彼の息遣いがすぐそこにあるだけで、まるで心に布団をかけられたみたいに安心する。
こんな感覚、今まで生きてきて一度もなかった。
まぶたが重くなる。そのわずかな間にも、宗介さんの呼吸が聞こえる。その呼吸に誘われるように私はすとん、と眠りに落ちていった。