君を守る契約
玄関のドアが開いた瞬間、ふわりと温かい空気に包まれた。
「いらっしゃい」
里美がいつもと変わらない笑顔で私を迎えてくれた。その一言だけで、張りつめていたものが音を立てて崩れる。
「お邪魔します……」
リビングに通され、ソファに腰を下ろすと、湯気の立つマグカップが差し出される。
「とりあえず、飲みなさい。話はそれから」
カモミールの香り。一口含んだ瞬間、喉の奥がきゅっと鳴った。
「……里美」
名前を呼んだだけで、涙が溢れそうになる。
「うん。ゆっくりでいい」
里美は私の向かいに座り、膝に手を置いたまま、急かさずに待ってくれている。私は何から話せばいいのか決められない。しばらく沈黙が流れたあと、私は息を整えて、少しずつ話し始めた。
「実は……結婚、してたの」
里美の表情が一瞬だけ動いた。でも、声は上げない。
「相手はね、とてもいい人。優しくて、誠実で……私にはもったいないくらい」
そこだけは、嘘じゃない。
「でも……契約なの。最初から期限付きで、割り切った関係」
里美は何も言わず、ただ頷いた。
「私、助けてもらったの。住む場所も、生活も、全部。感謝してる。だから……彼を悪く思ってほしくない」
それだけは、どうしても伝えたかった。契約だなんて響きは悪いけど、彼は私を助けてくれたことは紛れもない事実。それに彼に惹かれてしまった私は里美に悪い感情を持ってほしくなかった。彼女はしばらく考えるように視線を落とし、それから静かに口を開いた。
「琴音がそう言うなら、その人はきっと悪い人じゃないんでしょうね」
胸の奥が、少しだけ軽くなる。私は小さく頷くとマグカップを両手で包みながら、次の言葉を絞り出した。
「……妊娠してるの」
その瞬間、里美の呼吸がわずかに止まった。
「赤ちゃん、できたの」
里美は驚いた顔のまま、でも声を荒げることはなかった。
「……どうするの?」
「産む」
即答だった。迷いは全くない。
「私が産みたいって思った。誰に言われたわけでもなくて……私の意思」
そう言うと、里美は深く息を吸った。
「相手の人には?」
私は首を横に振った。
「言わない。言うつもりもない」
里美の眉が少しだけ寄る。でも、否定の色ではない。
「責任を取らせたくない、とか?」
「……それもある。でも一番は、彼の人生を壊したくない」
口にして、胸が痛くなる。
「契約で始まった関係に、取り返しのつかないものを背負わせる権利、私にはない」
里美はしばらく黙っていた。やがて、ふっと小さく笑った。
「相変わらず、全部自分で背負おうとするのね」
責めるでもなく、呆れるでもなく。
「でも……ちゃんと考えて出した答えなんでしょう?」
私は頷いた。
「なら、私は味方する」
その言葉が、胸にまっすぐ届いた。
「一人で産まなくていい。生活のことも、病院のことも、全部一緒に考えよう」
「里美……」
「幸也くんには、今は言わなくていいと思う。その上で言うタイミングは、琴音が決めなさい」
涙がこぼれ落ちる。
「ありがとう……」
「お礼は後。まずは、休むの」
里美は立ち上がり、きっぱりと言った。
「明日、病院で診断書もらいましょう。体調不良で休職。理由はそれで十分」
現実的で、迷いがない。
「その間、ここにいなさい。会社にも、相手の人にも、距離を置く時間が必要」
私は、静かに頷いた。
——これでいい。
逃げたんじゃない。選んだんだ。
赤ちゃんを守るために。そして彼を守るために。
自分自身が壊れないために。
窓の外は、もうすっかり夜だった。
でも、里美の部屋の灯りは、柔らかくて温かかった。
ここから、私は一度、人生を立て直す。
そう、静かに決めた。
「いらっしゃい」
里美がいつもと変わらない笑顔で私を迎えてくれた。その一言だけで、張りつめていたものが音を立てて崩れる。
「お邪魔します……」
リビングに通され、ソファに腰を下ろすと、湯気の立つマグカップが差し出される。
「とりあえず、飲みなさい。話はそれから」
カモミールの香り。一口含んだ瞬間、喉の奥がきゅっと鳴った。
「……里美」
名前を呼んだだけで、涙が溢れそうになる。
「うん。ゆっくりでいい」
里美は私の向かいに座り、膝に手を置いたまま、急かさずに待ってくれている。私は何から話せばいいのか決められない。しばらく沈黙が流れたあと、私は息を整えて、少しずつ話し始めた。
「実は……結婚、してたの」
里美の表情が一瞬だけ動いた。でも、声は上げない。
「相手はね、とてもいい人。優しくて、誠実で……私にはもったいないくらい」
そこだけは、嘘じゃない。
「でも……契約なの。最初から期限付きで、割り切った関係」
里美は何も言わず、ただ頷いた。
「私、助けてもらったの。住む場所も、生活も、全部。感謝してる。だから……彼を悪く思ってほしくない」
それだけは、どうしても伝えたかった。契約だなんて響きは悪いけど、彼は私を助けてくれたことは紛れもない事実。それに彼に惹かれてしまった私は里美に悪い感情を持ってほしくなかった。彼女はしばらく考えるように視線を落とし、それから静かに口を開いた。
「琴音がそう言うなら、その人はきっと悪い人じゃないんでしょうね」
胸の奥が、少しだけ軽くなる。私は小さく頷くとマグカップを両手で包みながら、次の言葉を絞り出した。
「……妊娠してるの」
その瞬間、里美の呼吸がわずかに止まった。
「赤ちゃん、できたの」
里美は驚いた顔のまま、でも声を荒げることはなかった。
「……どうするの?」
「産む」
即答だった。迷いは全くない。
「私が産みたいって思った。誰に言われたわけでもなくて……私の意思」
そう言うと、里美は深く息を吸った。
「相手の人には?」
私は首を横に振った。
「言わない。言うつもりもない」
里美の眉が少しだけ寄る。でも、否定の色ではない。
「責任を取らせたくない、とか?」
「……それもある。でも一番は、彼の人生を壊したくない」
口にして、胸が痛くなる。
「契約で始まった関係に、取り返しのつかないものを背負わせる権利、私にはない」
里美はしばらく黙っていた。やがて、ふっと小さく笑った。
「相変わらず、全部自分で背負おうとするのね」
責めるでもなく、呆れるでもなく。
「でも……ちゃんと考えて出した答えなんでしょう?」
私は頷いた。
「なら、私は味方する」
その言葉が、胸にまっすぐ届いた。
「一人で産まなくていい。生活のことも、病院のことも、全部一緒に考えよう」
「里美……」
「幸也くんには、今は言わなくていいと思う。その上で言うタイミングは、琴音が決めなさい」
涙がこぼれ落ちる。
「ありがとう……」
「お礼は後。まずは、休むの」
里美は立ち上がり、きっぱりと言った。
「明日、病院で診断書もらいましょう。体調不良で休職。理由はそれで十分」
現実的で、迷いがない。
「その間、ここにいなさい。会社にも、相手の人にも、距離を置く時間が必要」
私は、静かに頷いた。
——これでいい。
逃げたんじゃない。選んだんだ。
赤ちゃんを守るために。そして彼を守るために。
自分自身が壊れないために。
窓の外は、もうすっかり夜だった。
でも、里美の部屋の灯りは、柔らかくて温かかった。
ここから、私は一度、人生を立て直す。
そう、静かに決めた。