虐げられていた偽りの姫は(自称底辺の)最強魔術師に甘やかされる
そんな秘密ごとが交わされたその晩、ソフィアが隠れて仕事をしていることは、すでにルイスの知るところとなっていた。
ルイスは執務室で報告書に目を通しながら、窓の外に広がる庭を見つめた。目の疲れを取りたいが、まだ眠りにつけそうにない。城に戻ってから作業に入ったものの、仕事は終わりそうになかった。気付けば朝日がもうそこまで迫っている。そんな薄暗い光景の中、なにかが小さく動いているのが見えた。そこには今日も黙々と働くソフィアの姿。
「働き者だな……」
ルイスは苦笑しながらつぶやいた。彼はソフィアに穏やかな時間を与えるつもりでいたが、彼女にとってそれが必ずしも幸せではないことに気づき始めていた。
何度かソフィアの姿を庭で見かけていたのだ。しかし今日はどこか違う。いつも雑草を抜くソフィアが、ふとしたタイミングで何度か顔を上げては花を見つめている。これまで草ばかりに目を凝らしていたように思うが、一体どういう心境があったのだろうか。
暗闇の中、月がソフィアを照らす。彼女の手がふっと持ち上がり、花に触れようとする。けれど、すぐに思い直したかのように手を引っ込めてしまう。
まるで、自分が触れてしまえば枯れてしまうかのように思っている背中だった。そんなことはない、と今すぐにでも声をかけてしまいたい。これは全て、君のためにあるものだ。なぜ魔術を使ってでも花を綺麗に保っているのか。その理由が彼女にあることなど誰も知らないだろう。
窓ガラス越しに、ソフィアに触れてみる。ソフィアが花にしていたように、手を伸ばしてみれば、あまりにも遠く感じられた。こうして自分の城に連れてくるまでに何年という歳月がかかった。ようやく今、すぐそばで彼女がいるというのに、心の距離は離れたままだ。
彼女は忘れてしまっている──自分の過去も、自身に宿るあの特別な力も。
それが自身の中に眠る特別な力からくるものだとは思いもしないのだろう。おそらく彼女は、ずっと自分の価値を見出すことはできず、その呪いに囚われ続けてしまうはずだ。
ルイスがどれだけ言葉を尽くそうとも、凍り付いた心が完全に溶けるまでには時間がかかってしまう。その間にも、彼女を狙う人間は今も虎視眈々と目を光らせているだろう。
チャップマン家での生活がとても幸福なものだったとは言えないはずだ。彼女の心が深く傷ついたことは認めなければならない。それでも、あそこにぞんざいに扱われていた日々があったからこそ、奇しくもソフィアは自分で魔の手から守っていたことになる。決して褒められた話ではない。それでもこの七年、無事にソフィアが生きてこられたのは奇跡に近いのだ。自分に呪いをかけるという方法で、だけれども。
「ソフィア」
そっと彼女の名を呼ぶ。
聞こえるはずはないとわかっていても、そう呼ぶことをこの七年、ずっと待ち望んでいたのだ。もう二度と、会えないと思っていたのだから。
君は、この出会いが全て偶然だと思っているのだろう。これが全て、仕組まれていたことだとしたら、幻滅されてしまうだろうか。陥れるつもりではない。守るために。本当は何もかもを失うはずだったあの日、君が微笑みかけてくれていたことは一度だって忘れたことはない。それを打ち明ける日は近いだろうか。いや、そもそもあるだろうか。
彼女がここにいなければならない理由はないのだ。ここから出たいと望めば、それを止める権利などない。ただし危険から守りたいとは言うかもしれないが、それでも縛り付けていい理由にはならないはずだ。
そう分かっているのに、手放せそうにない。近くにいればいるほど、ソフィアの息遣いを感じてしまえば、安堵とともに別の感情に支配されそうになる。そうではいけない。自分がするべきことは、ソフィアに自分は特別だと気付いてもらうことだけだ。そのためならなんだってしよう。
──たとえ、偽りの愛を、築くことになったとしても。
* * *
お茶会なるものに招待されたと知ったソフィアは、それはたいそう驚きを隠せなかった。ソフィアを見たエミリーは、詫びるように、しかし彼女を愛らしく思う気持ちを少しばかり見せながら笑う。
「珍しいことではありませんよ、ソフィア様。なんといっても、あのパーティーにルイス様とご出席なされたのですから。みなさま、ソフィア様に興味があるんです」
「で、ですが……私はあくまでも、その……付き人に過ぎないですから。そんな、おもてなしをしていただくわけには」
ソフィア様、とエミリ―が呼びかけた。
「あの日、どなたよりも輝いていらしたのはソフィア様なのです。もちろん、ソフィア様はルイス様の大切な方なので、そう見えるのは当たり前ではございますが、それとは別に、輝いていらしたのです」
「別の理由、ですか?」
「ええ、ソフィア様。あの日のドレス、そして宝石たちは、ここ最近でも最も高価なものでしたから」
ひえっと、はしたない声が出ようとしたのをソフィアは必死でこらえた。咄嗟に口元を抑えるという古典的な手で。
「それに気付かない者は、あの場ではいなかったでしょう。ルイス様とご一緒だっただけでも特別視されるべきではありますが、なによりも身につけていたものがあれだけ高価であれば、ソフィア様にお近付きになりたくもできなかったはずです」
言われてみれば、ソフィアはあの日、ルイスの兄であるレンブラント以外からは声をかけられることはなかった。それは存在をなくすように縮こまっていたわけではなく、あまりにもソフィアが謎のレディーとしてひそやかに広まっていたからだった。
上流社会では見ない顔だというのに、装飾品は全て高級品。しかもその隣にはあのルイスだ。只者ではないと思われていたことに、エミリ―からの指摘でソフィアはようやく知った。
「そ、そうだったのですか……どうしましょう」
とんでもない勘違いをされていることにソフィアは慄いた。その反応も、エミリ―からしてみればもう慣れっこだ。エライザはソフィアの人柄を好いていたため、彼女の可愛らしい反応を見ると微笑まずにはいられなかった。
「なにも心配いりません。ソフィア様は、お茶会に堂々とご出席なさればいいのです」
「ですが、その……ルイス様に許可を得ないことには」
「そちらもご安心を。このお茶会の招待状に許しを出したのはルイス様ですから」
まさかここにルイスが関わっているとは思わず、ソフィアは何度目かの驚きを表した。
「ルイス様が……?」
ええ、と大袈裟にうなずいたエミリ―は、やはり微笑を崩さなかった。
「正直に申し上げます。お茶会の招待は、なにも今回が初めてではないのです」
初めてではない? それは声にならずとも、エミリ―には届いた。
「これまでに何十通とソフィア様に招待状が届いていたのですが、その全てをルイス様がお断りされていたのです。〝信用ができない〟──その一点張りで」
どうやらソフィアが知らない間で、ルイスは各方面から守りの体勢を見せてくれていたらしい。差出人は、どれもあのパーティーでソフィアを見かけた者たちばかり。ソフィアの素性を誰がいち早く突き止めるか、今では誰もが夢中になっていたという。
「しかし今回は別です。差出人はシャーロット様……ルイス様の義理のお姉さまですから」
シャーロット・ウォールデンは、ルイスの兄であるレンブラントの妻だった。
「一度お会いしたことがあるのですが……なんといいますか、癖が強い方という印象でして」
エミリ―はシャーロットの印象をどう伝えればいいか、そればかりに気を取られていた。そのことにソフィアも気づき、さらに緊張が高まっていく。もしシャーロットの前で失敗でもしたら。それこそルイスの評判が落ちてしまうのではないか。不安が募っていくが、エミリーはソフィアの手をそっと取った。
「なんといってもルイス様がお許しになられた方ですから」
そうだといい、とソフィアは力なくうなずく。エミリ―もまた、自身の言葉通りになってくれたら幸いだと思うばかりだった。あの方をどう表現することが正しいのか、エミリ―は今でも答えが見つかっていない。
ルイスは執務室で報告書に目を通しながら、窓の外に広がる庭を見つめた。目の疲れを取りたいが、まだ眠りにつけそうにない。城に戻ってから作業に入ったものの、仕事は終わりそうになかった。気付けば朝日がもうそこまで迫っている。そんな薄暗い光景の中、なにかが小さく動いているのが見えた。そこには今日も黙々と働くソフィアの姿。
「働き者だな……」
ルイスは苦笑しながらつぶやいた。彼はソフィアに穏やかな時間を与えるつもりでいたが、彼女にとってそれが必ずしも幸せではないことに気づき始めていた。
何度かソフィアの姿を庭で見かけていたのだ。しかし今日はどこか違う。いつも雑草を抜くソフィアが、ふとしたタイミングで何度か顔を上げては花を見つめている。これまで草ばかりに目を凝らしていたように思うが、一体どういう心境があったのだろうか。
暗闇の中、月がソフィアを照らす。彼女の手がふっと持ち上がり、花に触れようとする。けれど、すぐに思い直したかのように手を引っ込めてしまう。
まるで、自分が触れてしまえば枯れてしまうかのように思っている背中だった。そんなことはない、と今すぐにでも声をかけてしまいたい。これは全て、君のためにあるものだ。なぜ魔術を使ってでも花を綺麗に保っているのか。その理由が彼女にあることなど誰も知らないだろう。
窓ガラス越しに、ソフィアに触れてみる。ソフィアが花にしていたように、手を伸ばしてみれば、あまりにも遠く感じられた。こうして自分の城に連れてくるまでに何年という歳月がかかった。ようやく今、すぐそばで彼女がいるというのに、心の距離は離れたままだ。
彼女は忘れてしまっている──自分の過去も、自身に宿るあの特別な力も。
それが自身の中に眠る特別な力からくるものだとは思いもしないのだろう。おそらく彼女は、ずっと自分の価値を見出すことはできず、その呪いに囚われ続けてしまうはずだ。
ルイスがどれだけ言葉を尽くそうとも、凍り付いた心が完全に溶けるまでには時間がかかってしまう。その間にも、彼女を狙う人間は今も虎視眈々と目を光らせているだろう。
チャップマン家での生活がとても幸福なものだったとは言えないはずだ。彼女の心が深く傷ついたことは認めなければならない。それでも、あそこにぞんざいに扱われていた日々があったからこそ、奇しくもソフィアは自分で魔の手から守っていたことになる。決して褒められた話ではない。それでもこの七年、無事にソフィアが生きてこられたのは奇跡に近いのだ。自分に呪いをかけるという方法で、だけれども。
「ソフィア」
そっと彼女の名を呼ぶ。
聞こえるはずはないとわかっていても、そう呼ぶことをこの七年、ずっと待ち望んでいたのだ。もう二度と、会えないと思っていたのだから。
君は、この出会いが全て偶然だと思っているのだろう。これが全て、仕組まれていたことだとしたら、幻滅されてしまうだろうか。陥れるつもりではない。守るために。本当は何もかもを失うはずだったあの日、君が微笑みかけてくれていたことは一度だって忘れたことはない。それを打ち明ける日は近いだろうか。いや、そもそもあるだろうか。
彼女がここにいなければならない理由はないのだ。ここから出たいと望めば、それを止める権利などない。ただし危険から守りたいとは言うかもしれないが、それでも縛り付けていい理由にはならないはずだ。
そう分かっているのに、手放せそうにない。近くにいればいるほど、ソフィアの息遣いを感じてしまえば、安堵とともに別の感情に支配されそうになる。そうではいけない。自分がするべきことは、ソフィアに自分は特別だと気付いてもらうことだけだ。そのためならなんだってしよう。
──たとえ、偽りの愛を、築くことになったとしても。
* * *
お茶会なるものに招待されたと知ったソフィアは、それはたいそう驚きを隠せなかった。ソフィアを見たエミリーは、詫びるように、しかし彼女を愛らしく思う気持ちを少しばかり見せながら笑う。
「珍しいことではありませんよ、ソフィア様。なんといっても、あのパーティーにルイス様とご出席なされたのですから。みなさま、ソフィア様に興味があるんです」
「で、ですが……私はあくまでも、その……付き人に過ぎないですから。そんな、おもてなしをしていただくわけには」
ソフィア様、とエミリ―が呼びかけた。
「あの日、どなたよりも輝いていらしたのはソフィア様なのです。もちろん、ソフィア様はルイス様の大切な方なので、そう見えるのは当たり前ではございますが、それとは別に、輝いていらしたのです」
「別の理由、ですか?」
「ええ、ソフィア様。あの日のドレス、そして宝石たちは、ここ最近でも最も高価なものでしたから」
ひえっと、はしたない声が出ようとしたのをソフィアは必死でこらえた。咄嗟に口元を抑えるという古典的な手で。
「それに気付かない者は、あの場ではいなかったでしょう。ルイス様とご一緒だっただけでも特別視されるべきではありますが、なによりも身につけていたものがあれだけ高価であれば、ソフィア様にお近付きになりたくもできなかったはずです」
言われてみれば、ソフィアはあの日、ルイスの兄であるレンブラント以外からは声をかけられることはなかった。それは存在をなくすように縮こまっていたわけではなく、あまりにもソフィアが謎のレディーとしてひそやかに広まっていたからだった。
上流社会では見ない顔だというのに、装飾品は全て高級品。しかもその隣にはあのルイスだ。只者ではないと思われていたことに、エミリ―からの指摘でソフィアはようやく知った。
「そ、そうだったのですか……どうしましょう」
とんでもない勘違いをされていることにソフィアは慄いた。その反応も、エミリ―からしてみればもう慣れっこだ。エライザはソフィアの人柄を好いていたため、彼女の可愛らしい反応を見ると微笑まずにはいられなかった。
「なにも心配いりません。ソフィア様は、お茶会に堂々とご出席なさればいいのです」
「ですが、その……ルイス様に許可を得ないことには」
「そちらもご安心を。このお茶会の招待状に許しを出したのはルイス様ですから」
まさかここにルイスが関わっているとは思わず、ソフィアは何度目かの驚きを表した。
「ルイス様が……?」
ええ、と大袈裟にうなずいたエミリ―は、やはり微笑を崩さなかった。
「正直に申し上げます。お茶会の招待は、なにも今回が初めてではないのです」
初めてではない? それは声にならずとも、エミリ―には届いた。
「これまでに何十通とソフィア様に招待状が届いていたのですが、その全てをルイス様がお断りされていたのです。〝信用ができない〟──その一点張りで」
どうやらソフィアが知らない間で、ルイスは各方面から守りの体勢を見せてくれていたらしい。差出人は、どれもあのパーティーでソフィアを見かけた者たちばかり。ソフィアの素性を誰がいち早く突き止めるか、今では誰もが夢中になっていたという。
「しかし今回は別です。差出人はシャーロット様……ルイス様の義理のお姉さまですから」
シャーロット・ウォールデンは、ルイスの兄であるレンブラントの妻だった。
「一度お会いしたことがあるのですが……なんといいますか、癖が強い方という印象でして」
エミリ―はシャーロットの印象をどう伝えればいいか、そればかりに気を取られていた。そのことにソフィアも気づき、さらに緊張が高まっていく。もしシャーロットの前で失敗でもしたら。それこそルイスの評判が落ちてしまうのではないか。不安が募っていくが、エミリーはソフィアの手をそっと取った。
「なんといってもルイス様がお許しになられた方ですから」
そうだといい、とソフィアは力なくうなずく。エミリ―もまた、自身の言葉通りになってくれたら幸いだと思うばかりだった。あの方をどう表現することが正しいのか、エミリ―は今でも答えが見つかっていない。