虐げられていた偽りの姫は(自称底辺の)最強魔術師に甘やかされる
その日から、ソフィアは礼儀作法の勉強によりいっそう熱を注いだ。
本で得られるもののはできるだけ目を通すようにしていたが、全ての字が読めるわけではないので、身に付けられそうなものは少なかった。だからといって、城内にいる人に助けを求めるわけにはいかない。みなが忙しそうに動いている。
そういうこともあり、ソフィアは、できるだけあの日のパーティーを思い出すことにした。
集中して周りを見ている時間などなかった。あのときはルイスの邪魔にならないようにと、ただそれだけを必死に考えていたのだから。それでも、参考になる場面はあそこしかないはずだ。ソフィアは目を閉じ、すうっと息を吸った。
紅茶カップの持ち方はもちろんだけれど、会話にもマナーが求められていたはず。けれど文学も芸術、それに政治といった知識はほとんど持ち合わせていない。
話せることといえば、寝坊してはならない日は壁に背を預けて眠るだとか、ガラスや鏡を磨くには酢と水を絶妙の割合で混ぜるだとか、使用人として必須なものぐらいだ。それならばソフィアはいくらだって話を続けることができるかもしれないが、上流階級の人間が楽しめるとは思えなかった。
それに、ソフィア自身が使用人として扱われていたと知られれば、ルイスの評判も落ちてしまうかもしれない。だとすれば、やはり話せることはなにもない。やはり見よう見まねで貴族の中に潜むしかない。結果的に、ソフィアに参考できることは限られてくる。思考が逸れてしまったことで、再びあの場にいた全員を思い出そうとしたとき、控えめにノックの音が聞こえた。
「ソフィア」
はっと目を開ける。聞こえたのはルイスの声だった。慌てて部屋の扉を開ければ、さらりとした髪が傾いた。
「すまない、もう眠っていたかな」
「と、とんでもありません……少し考え方を、していまして」
そう、とうなずいたルイスは、ソフィアに微笑みかける。
「久しぶりに話ができないかと思って。こんな時間で申し訳ないけれど」
「光栄です……あの、お部屋に──」
どうぞと招き入れていいものなのか、ソフィアは一瞬で戸惑い、そしてわからなかった。ソフィア自身、ルイスを部屋に入れることは歓迎だったものの、これは品性が問われるものなのかと思えば、さすがにその先を言うのはよくないだろう。レンブラントの言葉を思い出す。未婚の男女は部屋を行き来するべきではない。
そんなソフィアの思考が、魔術関係なく読めたことでルイスはくすりと肩を揺らす。
「この時間の庭は、昼間とは別の輝きがあってね。よければ付き合ってくれないかな」
ルイスからの提案に、ソフィアはそっと胸をなでおろす。もちろんです、と答えれば、すぐに部屋を出た。それから、少し先を歩くルイスの背中を追うように廊下を歩いた。窓から差し込む月明かりが、二人の影を長く伸ばす。日中はどこか賑やかな城内も、この時間は寝静まったように音が聞こえない。
「ソフィア、君がここに来てからのことを少し話したいんだ」
庭に出ると、ベンチに座るよう促された。それに従うと、人がひとり分入るほどのスペースを空けてルイスは座った。
「君がここで過ごしている間、何もすることがなくて退屈しているんじゃないかと思って」
「た、退屈だなんてそんな……私にはもったいない日々を過ごさせていただいています」
寝坊したとても咎められない。早朝から夜中まで働きづめだった毎日を思い返せば、今はあまりにも幸福だと言える。ただ、退屈とはまた違う、焦燥感に似たものは抱いていた。
何もしない一日というものがソフィアにはなかったからこそ、ただ時間だけが過ぎていく日々には罪悪感のようなものを抱いていた。
「あの……パーティーの件。ありがとうございました」
いつかお礼を、と言うタイミングを見ていたのだが、ルイスはどうも忙しい人で、城内で会える時間は限られていた。「ああ、そのことか」ルイスは苦笑する。
「勝手に決めてしまって、怒られるかもしれないと思っていたんだ」
「怒るだなんてそんな……とても、嬉しいのですが」
「不安?」
ソフィアが言い淀んだことを、ルイスはそっと引き取った。はい、とうなずいてしまうのは失礼だろうか。控えめにうなずくだけにとどめたが、それだけでルイスには全てが通じてしまうような気がしていた。
「……問題ないよ、と言ってあげるべきだろうけれど、それはソフィアが決めることだから、さすがに勝手が過ぎるかな」
「いえ、そんなことはありません。シャーロット様は、その……私のような人間でも受け入れてくださるのか心配で」
「そこははっきりと問題ないと言ってしまえるね。あの人は少し変わり者だから」
変わり者、となぞる。そこにはどこか、親しみを込めたようなニュアンスが含まれているようにもうかがえる。ルイスは話題を切り替えるように言った。
「何かほかに気になっていることはないか?」
あ、と声をもらしそうになった。パーティーの件でお礼を伝えたいこともそうだったが、ルイスにはどうしても聞いておきたいことがあったからだ。なんでも口にしてしまうのは品がないと思われるかもしれないが、これだけはどうしたって確認しておきたいことだった。
「ありません。むしろ、何のお役にも立てていない私がここにいて……」
「役に立っていないなんて、本当にそう思うのかい?」
どういうことだろうと顔を上げれば、陶器のような肌と、シルクのような髪がソフィアに笑いかけた。
「君がここにいること自体が僕にとって重要なんだ。君が大事にしたいことを僕も大切に思っている。だから、安心してここで過ごしてほしい」
「……どうしてそこまでしてくださるのですか?」
ソフィアは少し震える声で問いかけた。出会ったときから、ルイスにはこれ以上ないほどの施しをしてもらった。さらに望んでしまえば罰が当たりそうだ。
ルイスは一瞬の沈黙の後、星を見上げるに空を仰いだ。
「君は特別な存在なんだ。君が安心してここで過ごせるようにすることが、僕にとって一番の喜びだから」
ソフィアはその言葉に戸惑いながらも、内心で感謝の気持ちが広がる。何度目かのお礼を口にしかけ、けれどこれにはお返しが必要なのではないかと思うと顔を青ざめた。
「ルイス様、申し訳ございません……私には、これだけのことをしてもらっても、お返しできるものがなにもないのです」
「もう、すでにもらっているよ」
「……え?」
「君はソフィア、君の存在自体が価値あるものなんだ。君がここにいることが、僕にとってどれだけ重要か、君にはまだわからないかもしれない。でも、それは事実だと知っていてほしい」
花々がルイスの後ろでゆらりと揺れている。ここがとても特別な場所であるかのように、そしてここが居場所だとソフィアに告げるように、穏やかな時間が流れていた。
「ソフィア」
ルイスが、愛おしい存在を呼ぶような声で彼女の名を呼んだ。そのことに気付かないソフィアは、はい、と小さく答える。
「花は、好きか?」
突然の問いかけに、ソフィアはその意図がわからなかった。なにを聞かれているのだろう。ただ花が好きかどうか、それだけを答えればいいのか。けれど話の脈が感じられない。ええと、と言葉を繋ぎながら、そうですね、と着地した。
「好き……になりました。ここに来てから」
ルイスの魔術がかかったひみつの花園。日に日にソフィアにとっても、花は身近なものになりつつあり、ひとつひとつ花の名を覚えることが日課になっていた。しかしルイスの表情はどこか暗いままだった。
「そうか……好きになってくれたらそれでいい」
よかった、と言われてしまうよりも、なんだか寂しさが募るような言い回しだった。もちろんルイスにはそのつもりなどなかった。ただ本心を伝えただけだ。しかしソフィアにとっては、今の答え方が間違っていたのかもしれないという心配へと変わっていった。
「あの、申し訳ございません」
「どうしてソフィアが謝るんだ?」
「その……求められていたお返事では、なかったように思いまして」
ああ、とそこでルイスは自分の失態に気付く。彼女をそんな気持ちにさせたかったわけではない。違うんだ、と咄嗟に返した。
「……僕に花を教えてくれた人をつい思い出してしまって。すまない、ソフィアが悪いというわけではないんだ。ただ、その人が、今も花を好きでいてくれたらいいと、思っていただけで」
謝るのは僕のほうだとルイスは言った。ソフィアは即座に首を振ったが、気にならないわけではなかった。ルイスに花を教えた人とは一体誰だろうかと。なんだかとても大切な人のように思う。──しかし、ルイスからしてみれば、それは他ならないソフィアのことだった。
ソフィアにその記憶がないことを、ただ憂いながら。
本で得られるもののはできるだけ目を通すようにしていたが、全ての字が読めるわけではないので、身に付けられそうなものは少なかった。だからといって、城内にいる人に助けを求めるわけにはいかない。みなが忙しそうに動いている。
そういうこともあり、ソフィアは、できるだけあの日のパーティーを思い出すことにした。
集中して周りを見ている時間などなかった。あのときはルイスの邪魔にならないようにと、ただそれだけを必死に考えていたのだから。それでも、参考になる場面はあそこしかないはずだ。ソフィアは目を閉じ、すうっと息を吸った。
紅茶カップの持ち方はもちろんだけれど、会話にもマナーが求められていたはず。けれど文学も芸術、それに政治といった知識はほとんど持ち合わせていない。
話せることといえば、寝坊してはならない日は壁に背を預けて眠るだとか、ガラスや鏡を磨くには酢と水を絶妙の割合で混ぜるだとか、使用人として必須なものぐらいだ。それならばソフィアはいくらだって話を続けることができるかもしれないが、上流階級の人間が楽しめるとは思えなかった。
それに、ソフィア自身が使用人として扱われていたと知られれば、ルイスの評判も落ちてしまうかもしれない。だとすれば、やはり話せることはなにもない。やはり見よう見まねで貴族の中に潜むしかない。結果的に、ソフィアに参考できることは限られてくる。思考が逸れてしまったことで、再びあの場にいた全員を思い出そうとしたとき、控えめにノックの音が聞こえた。
「ソフィア」
はっと目を開ける。聞こえたのはルイスの声だった。慌てて部屋の扉を開ければ、さらりとした髪が傾いた。
「すまない、もう眠っていたかな」
「と、とんでもありません……少し考え方を、していまして」
そう、とうなずいたルイスは、ソフィアに微笑みかける。
「久しぶりに話ができないかと思って。こんな時間で申し訳ないけれど」
「光栄です……あの、お部屋に──」
どうぞと招き入れていいものなのか、ソフィアは一瞬で戸惑い、そしてわからなかった。ソフィア自身、ルイスを部屋に入れることは歓迎だったものの、これは品性が問われるものなのかと思えば、さすがにその先を言うのはよくないだろう。レンブラントの言葉を思い出す。未婚の男女は部屋を行き来するべきではない。
そんなソフィアの思考が、魔術関係なく読めたことでルイスはくすりと肩を揺らす。
「この時間の庭は、昼間とは別の輝きがあってね。よければ付き合ってくれないかな」
ルイスからの提案に、ソフィアはそっと胸をなでおろす。もちろんです、と答えれば、すぐに部屋を出た。それから、少し先を歩くルイスの背中を追うように廊下を歩いた。窓から差し込む月明かりが、二人の影を長く伸ばす。日中はどこか賑やかな城内も、この時間は寝静まったように音が聞こえない。
「ソフィア、君がここに来てからのことを少し話したいんだ」
庭に出ると、ベンチに座るよう促された。それに従うと、人がひとり分入るほどのスペースを空けてルイスは座った。
「君がここで過ごしている間、何もすることがなくて退屈しているんじゃないかと思って」
「た、退屈だなんてそんな……私にはもったいない日々を過ごさせていただいています」
寝坊したとても咎められない。早朝から夜中まで働きづめだった毎日を思い返せば、今はあまりにも幸福だと言える。ただ、退屈とはまた違う、焦燥感に似たものは抱いていた。
何もしない一日というものがソフィアにはなかったからこそ、ただ時間だけが過ぎていく日々には罪悪感のようなものを抱いていた。
「あの……パーティーの件。ありがとうございました」
いつかお礼を、と言うタイミングを見ていたのだが、ルイスはどうも忙しい人で、城内で会える時間は限られていた。「ああ、そのことか」ルイスは苦笑する。
「勝手に決めてしまって、怒られるかもしれないと思っていたんだ」
「怒るだなんてそんな……とても、嬉しいのですが」
「不安?」
ソフィアが言い淀んだことを、ルイスはそっと引き取った。はい、とうなずいてしまうのは失礼だろうか。控えめにうなずくだけにとどめたが、それだけでルイスには全てが通じてしまうような気がしていた。
「……問題ないよ、と言ってあげるべきだろうけれど、それはソフィアが決めることだから、さすがに勝手が過ぎるかな」
「いえ、そんなことはありません。シャーロット様は、その……私のような人間でも受け入れてくださるのか心配で」
「そこははっきりと問題ないと言ってしまえるね。あの人は少し変わり者だから」
変わり者、となぞる。そこにはどこか、親しみを込めたようなニュアンスが含まれているようにもうかがえる。ルイスは話題を切り替えるように言った。
「何かほかに気になっていることはないか?」
あ、と声をもらしそうになった。パーティーの件でお礼を伝えたいこともそうだったが、ルイスにはどうしても聞いておきたいことがあったからだ。なんでも口にしてしまうのは品がないと思われるかもしれないが、これだけはどうしたって確認しておきたいことだった。
「ありません。むしろ、何のお役にも立てていない私がここにいて……」
「役に立っていないなんて、本当にそう思うのかい?」
どういうことだろうと顔を上げれば、陶器のような肌と、シルクのような髪がソフィアに笑いかけた。
「君がここにいること自体が僕にとって重要なんだ。君が大事にしたいことを僕も大切に思っている。だから、安心してここで過ごしてほしい」
「……どうしてそこまでしてくださるのですか?」
ソフィアは少し震える声で問いかけた。出会ったときから、ルイスにはこれ以上ないほどの施しをしてもらった。さらに望んでしまえば罰が当たりそうだ。
ルイスは一瞬の沈黙の後、星を見上げるに空を仰いだ。
「君は特別な存在なんだ。君が安心してここで過ごせるようにすることが、僕にとって一番の喜びだから」
ソフィアはその言葉に戸惑いながらも、内心で感謝の気持ちが広がる。何度目かのお礼を口にしかけ、けれどこれにはお返しが必要なのではないかと思うと顔を青ざめた。
「ルイス様、申し訳ございません……私には、これだけのことをしてもらっても、お返しできるものがなにもないのです」
「もう、すでにもらっているよ」
「……え?」
「君はソフィア、君の存在自体が価値あるものなんだ。君がここにいることが、僕にとってどれだけ重要か、君にはまだわからないかもしれない。でも、それは事実だと知っていてほしい」
花々がルイスの後ろでゆらりと揺れている。ここがとても特別な場所であるかのように、そしてここが居場所だとソフィアに告げるように、穏やかな時間が流れていた。
「ソフィア」
ルイスが、愛おしい存在を呼ぶような声で彼女の名を呼んだ。そのことに気付かないソフィアは、はい、と小さく答える。
「花は、好きか?」
突然の問いかけに、ソフィアはその意図がわからなかった。なにを聞かれているのだろう。ただ花が好きかどうか、それだけを答えればいいのか。けれど話の脈が感じられない。ええと、と言葉を繋ぎながら、そうですね、と着地した。
「好き……になりました。ここに来てから」
ルイスの魔術がかかったひみつの花園。日に日にソフィアにとっても、花は身近なものになりつつあり、ひとつひとつ花の名を覚えることが日課になっていた。しかしルイスの表情はどこか暗いままだった。
「そうか……好きになってくれたらそれでいい」
よかった、と言われてしまうよりも、なんだか寂しさが募るような言い回しだった。もちろんルイスにはそのつもりなどなかった。ただ本心を伝えただけだ。しかしソフィアにとっては、今の答え方が間違っていたのかもしれないという心配へと変わっていった。
「あの、申し訳ございません」
「どうしてソフィアが謝るんだ?」
「その……求められていたお返事では、なかったように思いまして」
ああ、とそこでルイスは自分の失態に気付く。彼女をそんな気持ちにさせたかったわけではない。違うんだ、と咄嗟に返した。
「……僕に花を教えてくれた人をつい思い出してしまって。すまない、ソフィアが悪いというわけではないんだ。ただ、その人が、今も花を好きでいてくれたらいいと、思っていただけで」
謝るのは僕のほうだとルイスは言った。ソフィアは即座に首を振ったが、気にならないわけではなかった。ルイスに花を教えた人とは一体誰だろうかと。なんだかとても大切な人のように思う。──しかし、ルイスからしてみれば、それは他ならないソフィアのことだった。
ソフィアにその記憶がないことを、ただ憂いながら。