妖精渉る夕星に〜真摯な愛を秘めた外科医は、再会した絵本作家を逃さない〜
「……わかったよ。今は連絡先を聞くのは諦めるよ」

 その言葉にホッとしたように息を吐いた花梨は、北斗の表情を見てギョッとした。不敵な笑みを浮かべて花梨を見下ろしていたのだ。

「相変わらず山之内さんらしいね」
「相変わらず……って?」
「なんでもない。その代わり、これから食事にでも行かない?」
「これから?」
「予定でもあるの?」
「ないけど……」

 そう口にしてから慌てて口を閉ざす。予定があると嘘をつくことが出来たはずなのに、北斗を前にして心の余裕がなくなっていた。

「じゃあ決まり。着替えてくるからロビーで待ってて。あっ、逃げたりしないようにね」
「えっ、ちょっと待って! 私まだいいって言ってない──」

 しかし花梨の言葉など聞こえていないかのように、北斗は病棟の方へと戻っていく。一人取り残された花梨は、どうすることも出来ずにただ立ちすくんだ。

 先ほどまで握られていた手がようやく解放されたのに、寂しさを覚えたのは何故だろう。

 このまま帰ることも出来る──しかし頭に北斗の最後の言葉がリフレインし、花梨の心を惑わせた。

 彼って、こんなに強引な人だったかしら。それとも私が知らなかっただけ?

 約束したわけではないが、ロビーで一人待つ北斗の姿を想像すると、帰ってしまうことに罪悪感を覚える。

 あの日のことを忘れたわけではない。でも本当は彼ときちんと話をすべきだとも思っていた。あの時の自分は、目で見たことをそのまま受け取るしか出来ず、心も頭も余裕がなくていっぱいいっぱいだった。

 でももしそこに、花梨の目には見えない何か別の真実が隠れていたのだとしたら──花梨はため息をつくと、スマホで時間を確認する。

 いまは午後四時半。夕食にしては早過ぎではないだろうか。それに二人きりになるのは八年振りだし、空気が保つか不安しかない。

「妖精が何回も通りそう……」

 そう呟いてから再びため息をつくと、花梨はロビーに降りるため、エレベーターに向かった。
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