辣腕クールな脳外科医は、偽りの婚約者を甘く堕として妻にする
「はーい」
 沙耶は元気よく返事をして、いつもの軽やかな足取りで男性のテーブルに近づいた。スーツを着たその男性は、親しげに沙耶に笑いかける。
「これ、すごくおいしいよ。シロちゃんが作ってくれたんだよね?」
 男性は食べかけのカツレツを指さして言った。
「あ、はい。お口に合ってよかったです」
「このスープも君が?」
 男性がクラムチャウダーを示し、沙耶は首を横に振る。
「そちらは別のスタッフが作りました。今、キッチンにいるんですが――」
 沙耶がキッチンに顔を向けたので、彼女の関心を引き戻すように男性が言う。
「それより、三周年の合言葉を言うとお土産があるって聞いたんだけど」
 沙耶は男性に視線を戻した。
「はい。合言葉はご存じですか?」
「もちろん。ハッピー・アニバーサリー、だよね?」
 男性の言葉に、沙耶がにっこり笑った。
「はい。では、こちらをどうぞ。これからもカフェ・プラチナをよろしくお願いします」
 沙耶はレジカウンターの上のかごから、小さなパッケージに入ったお菓子を取って、男性に渡した。先日、沙耶に味見を頼まれたのと同じポルボロンだ。
「ありがとう。これはなに?」
「これはポルボロンというスペインのお菓子なんですけど――」
 男性に訊かれて、沙耶が丁寧に答えている。男性は沙耶の顔をじっと見ながら、彼女のほうに体を寄せた。今にも彼女の腕に彼の肩が触れそうだ。
 その下心が見え見えの仕草に、匠真はいら立ちを覚えた。けれど、熱心に説明をしている沙耶は気づいていない。
「ゆっくり召し上がってくださいね」
 説明を終えた沙耶が席を離れようとしたが、男性はまたなにか言おうと口を開きかけた。
「沙耶さん」
 気づけば匠真は彼女の名前を呼んでいた。
 沙耶はパッと顔を向けたものの、名前で呼ばれたことに驚いたようで目を丸くしている。けれど、一度瞬きをすると、「はい」と返事をした。
 匠真を待たせまいと急いで歩いてくるその姿に、さっきまで感じていたいら立ちが薄れていく。
「お待たせしました!」
 沙耶は目を見開いて、期待するようなまなざしでじっと匠真を見つめた。その大きな瞳に吸い寄せられるように沙耶を見つめ返す。彼女の瞳の中に自分の姿を見つけたとき、沙耶が小さく首を傾げた。
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