この夜の意味〜声にできない恋を隠したら、完全無欠な御曹司の本気スイッチ入りました〜(旧:RISKY〜不敵な御曹司との恋は避けるべき〜)
私がなぜ会見の場にいたのか、彼はそれさえ聞いてこなかった。周辺を探る中で薄々気づいてはいたが、本当に彼は人を信じすぎだと思う。

だからこそ彼に近づけば、易々と手がかりを明け渡してくれそうな気もする。でも彼が父のしたことに対して、どれほど把握していて、どれほど関与していたのかも、まだわからない。

これは利用する価値あり、と簡単に決めつけてもいいものだろうか。

手ぶらでは帰らないという固い誓いは守られたが、新たな重い荷物を背負いながら、私は久方ぶりに外界の冷たい空気を吸う。

あたりはもうすっかり暗くなっている。最後に時計を見たのはこの建物に入るとき。確か13時過ぎだった。今の時刻は18時ちょうどだ。

手元の液晶画面も暗闇を照らすように、爛々と光っている。ついさっきまであれほど満ち足りた世界にいたからか、ふと自分がいる位置を見失ってしまいそうになる。

どう間違えたって、私はただの記者。彼らからすれば下界の人間にすぎない。身を冷やす冬の風が、そんな冷静さを取り戻してくれる気がして、今は少し有難くも感じる。いつものように電車を使ったルートを確認し、トボトボと最寄り駅までの道につく。

それにしても、まさか社長と顔を突き合わせられるとは思ってもいなかった。それに、あんな協力までせがまれるとは…。明日の朝9時、私に残された時間はもう1日もない。

駅の構内は学校帰りや仕事帰りの乗客で溢れかえり、ガヤガヤとしている。平然とその人混みを掻き分け、満員電車に飛び乗った。

私が記者として働き始めたのは、12年前。記者になりたければ良い大学に入って、大手メディアに雇われて、という道が最も王道なのだろう。

ただ私にはそんなお金もあるわけがないし、何より企業の中に入ってしまっては、自由に身動きを取ることすらできない。

だから汗水垂らして日夜歩き回り、自分の足で人脈をつくって、今こういう生活を続けていけている。

もし彼の要求を飲んでしまえば、私は彼に雇われることになるわけだ。恐らく、今まで通り記者として自由に動くことはできなくなるだろう。

積み上げてきたものを手放すのには、それなりの勇気と覚悟がいる。

「文乃ちゃん、文乃ちゃん。おかえり」

聞き慣れた女性の声が、私を現実の世界に呼び戻す。

彼女は、私がこういう人間になる前から良くしてくれている、お弁当屋のおばちゃんだ。今日もエプロンのポケットで暖をとるくらい寒いはずなのに、私の姿が見えると、ただでさえ小さな体を縮こませながら、お弁当片手に、わざわざ家庭の明かりがポツポツと灯るひっそりとした寒空の下まで、出てきてくれる。

「また、そんなに考え込んで。仕事熱心なのも良いけど、体だけ壊さないようにね」

「うん、おばちゃんも。いつもありがとうね」 

この店から少し歩いたところに、佇まいの似た私の家がある。築60年の木造一軒家に私は一人で住んでいる。いや、ある時から一人で住むようになった、とでも言おうか。
< 13 / 79 >

この作品をシェア

pagetop