この夜の意味〜声にできない恋を隠したら、完全無欠な御曹司の本気スイッチ入りました〜(旧:RISKY〜不敵な御曹司との恋は避けるべき〜)
「ただいま」

もちろん返事なんて返ってこない。でも今日みたいな一人でしのぐには寒すぎる夜はなんだか昔のように、受け止めてくれる温かな声を待ってみたい気分だった。

ここ最近一段と音を立てるようになった床板の上を足早に過ぎ去り、すぐさま真っ暗な部屋に明かりを灯す。寒さを紛らわすようにストーブをつけてみるが、それでもなんだか人の温もりが恋しかった。お礼の意味も込めて、一本電話をかける。

「もしもし?文乃?」

「うん、今帰ったところ。ごめんね。父さんのところ、尚美一人で行かせちゃって」

「全然。お父さん元気だったよ。私を見るなり、文乃、文乃って。あんたに会いたかったんじゃないかな?」

父は、かれこれ20年ずっとこんな感じだ。私のことはおろか、自分のことだってよく分かっていない。

「別に私が行ったって、尚美が行ったって変わんないよ。見分けもつかないんだから」

「また、そうやって思ってもないことを言う。そうだ、東条の件はどうなったの?その気の強さで、こてんぱんに打ちのめしてきたんでしょうね?」

初めから断る気だったのなら、いつものようにその日にあったことを洗いざらい聞いてもらえば良い話だ。

でも不思議と今日はそれ以上、彼女に話す言葉が出てこなかった。私が急に黙るからか、尚美もこれ以上踏み込んではいけないと察してくれる。

「とにかくお父さんは変わりないから。あんたも安心してゆっくり休みな」

尚美のこの一言で電話が途絶えた。

多分あの場ですぐ答えを出せと言われていたら、私は即ノーを突きつけていただろう。

でも人間は怖いもので、考えれば考えるほど希望のないところに希望を見出してしまうようだ。

だだっ広い社長室にぽつんと取り残されてから、今もこじんまりとしたこの部屋に私しかいない。

この間ずっと一人で答えを探し続けていたせいか、根拠のない自信とか覚悟とか、正直芽生え始めてきてしまっている。

今日一日だけでも、随分と宗高の無防備さを見せてもらった。やはり彼から芋づる式に、東条家を崩壊させていくのが最善のように感じられてならない。

私は尚美との電話で、これから向かう先をはっきりと見定めることができた。

「ピロロン、ピロロン」

朝の6時。鳴り響くアラーム音で強引に眠りの外へと呼び起こされる。

いつもなら手前にある服を無造作にかぶるだけで身支度はすぐに完了する。ただ今日は、クローゼットの影で眠るベージュ色のパンツスーツと、窮屈すぎて着心地がいまいちな黒のリブニット、それに足を酷使する仕事には絶対に向いていない黒のローファーを引っ張り出さなければならない。

慣れない正装に身を包み、自分の置かれた状況がこれまでとは違うものだということを、強く認識させられる。

やるからには、失敗は許されない。もちろん勝算あっての決断だ。ただ、社長室に掲げられた、あの写真を見つめる鋭い眼差しが私にはどうも引っかかる。

滅多に人を認めない太郎が「理想通りに育ってくれた」と豪語するくらい、彼にとって宗高はさぞかし自慢の息子のはずだ。

非行に走ったとか衝突があったとか、そんな話はこれまで聞いたこともない。彼らの間には、まだ誰にも知られていない関係性でもあるのだろうか?

昨日あの目を見たとき、決してこの人の前で油断だけはしてはならないと、私の中の何かが反応した。だからこそ私は少しも気を抜くことがないように、細心まで鎧をまとう。

「文乃ちゃん、おはよう」

「おばちゃん、おはようございます」

「今日は早いね。格好もビシッと決めちゃって」

「ちょっと気合いを入れなきゃならない仕事が入ってね」

「そう。じゃあ頑張っておいで」

昨日はスマホをチラチラと見ながら通った道も、今日はその逆を行けば良いわけだから、案外スムーズに移動できる。

慣れとはあまりに恐ろしいものだ。こうして私を取り巻く環境は、見る見るうちに変わっていってしまうのだろうか。

ただ一つだけ、昨日とは違うところもある。私は多くの出勤者が行き交う正面入口ではなく、裏口へと向かった。

時刻は朝の8時。指定された時間までまだ1時間もあるが、これも全て想定内。思った通り、ちょうど1台の黒いセダンが私の前に止まる。

後部座席のパワーウィンドウが上がると、今日の宗高は黒のタートルネックセーターに黒のジャケットというオールブラックコーデらしい。目を落とす時計の色まで黒色だ。

「僕、社長室にって言いませんでした?それに、まだ時間にもなっていない」
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