この夜の意味〜声にできない恋を隠したら、完全無欠な御曹司の本気スイッチ入りました〜(旧:RISKY〜不敵な御曹司との恋は避けるべき〜)
「もう来なくていいから」
彼は去り際に辛うじて聞こえるような小さな声でこう放った。この一言を最後にしてしまうと、彼とのつながりが本当に途絶えてしまう。とにかく、ここを彼との最後の場所にしてはいけない。
私はまだ乾ききっていない服たちを、乱暴に手に取る。肌に当たる感触が不快なくらいに湿っぽいが、もうそんなのはどうだっていい。
今ならまだ彼に追いつけるかもしれない。一縷の望みをかけて部屋から飛び出すが、我々を下へと運んでくれるものはそんな思い通りにやってくるものではない。
でも階段を使えば、行き場のないこの思いをすぐに行動へと移すことができる。私は長く続く段差が途切れるまで、とにかく必死に下っていく。
どこを探しても姿は見当たらず、このホテルの異様な広さが今になってとても恨めしく感じられた。手立てを失って、ただ呆然とたたずんでいると、この失態のきっかけをつくった張本人が、かかとから「カツカツ」と音を立てながらと存在を誇示するように横切っていく。
「あのっ……!」
「あなたは…?ああ!先程はごめんなさいね。私に何かご用かしら?」
コソコソと動き回っていることについては、あえて追及しないでおこう。そこはとりあえず後回しだ。とにかく今は彼にまた使える、と思ってもらう手札を掴むことが最優先なのだから。
「北里社長とのご会食の件なのですが。社長からお時間を1時間ほど早めたいと、伝言を預かっておりまして」
「本当に?彼がそう言ったの?」
「はい。それはもう、東条も前々から楽しみにしておりましたから」
「あら、そう?じゃあパパに伝えておくわ」
「よろしくお願いいたします」
私は深々と頭を下げる。彼が楽しみにしている、といえば彼女も悪い気はしないだろうと話を振ってみた。が、案の定とても気分が良さそうに帰っていく。
あと私に出来ることは、明日その時刻通りに北里社長が来ることに望みを託すしかない。
もしこんな勝手なことをしたと知られてしまえば、私は元に戻るどころかあの会社に近づくことさえ許されなくなるだろう。結果はどう転ぶかわからない。でも、これが私に残された最後の望みだ。
とっくに遠く離れた場所まで来ているのに、あの一瞬だけずっと頭にこびりついたままだ。夜風に触れていても、その瞬間が頭を横切る度に体全身が熱くなり、胸の鼓動が急激に早くなる。
これで何度、唇に触れただろうか。触らなくてとも自分が犯した過ちは、はっきりと分かるはずなのに。
唇に残る感触が頭を埋め尽くすから、私は真っ先に家の蛇口をひねる。でもゴシゴシと痛みすら感じるくらいに強くこすって洗い流しても、残る感触は変わってくれない。洗ったってその事実が消えてなくなるはずなんてないことは自分でもわかっている。私は何とも往生際の悪い人間だ。
そうだ、起こしたことはどうやったって変えられない。いま考えるべきはそこではない。明日の結果次第で、私が生き残るか滅びるか、その命運がかかっている。
頭ではそう理解できているのに、あの一瞬がそんな私の計画さえ阻もうとしてくる。早く明日になれば良いのに。そうすれば、新しい出来事であの一瞬もきっと上書きできる。そうやって目の前の問題から逃げるように眠りにつこうとするが、目を瞑るとますますあの瞬間がリアルさを増して鮮明に蘇ってくる。
眠りにつくその瞬間まで、瞼の裏にこびりついて離れない。
彼は去り際に辛うじて聞こえるような小さな声でこう放った。この一言を最後にしてしまうと、彼とのつながりが本当に途絶えてしまう。とにかく、ここを彼との最後の場所にしてはいけない。
私はまだ乾ききっていない服たちを、乱暴に手に取る。肌に当たる感触が不快なくらいに湿っぽいが、もうそんなのはどうだっていい。
今ならまだ彼に追いつけるかもしれない。一縷の望みをかけて部屋から飛び出すが、我々を下へと運んでくれるものはそんな思い通りにやってくるものではない。
でも階段を使えば、行き場のないこの思いをすぐに行動へと移すことができる。私は長く続く段差が途切れるまで、とにかく必死に下っていく。
どこを探しても姿は見当たらず、このホテルの異様な広さが今になってとても恨めしく感じられた。手立てを失って、ただ呆然とたたずんでいると、この失態のきっかけをつくった張本人が、かかとから「カツカツ」と音を立てながらと存在を誇示するように横切っていく。
「あのっ……!」
「あなたは…?ああ!先程はごめんなさいね。私に何かご用かしら?」
コソコソと動き回っていることについては、あえて追及しないでおこう。そこはとりあえず後回しだ。とにかく今は彼にまた使える、と思ってもらう手札を掴むことが最優先なのだから。
「北里社長とのご会食の件なのですが。社長からお時間を1時間ほど早めたいと、伝言を預かっておりまして」
「本当に?彼がそう言ったの?」
「はい。それはもう、東条も前々から楽しみにしておりましたから」
「あら、そう?じゃあパパに伝えておくわ」
「よろしくお願いいたします」
私は深々と頭を下げる。彼が楽しみにしている、といえば彼女も悪い気はしないだろうと話を振ってみた。が、案の定とても気分が良さそうに帰っていく。
あと私に出来ることは、明日その時刻通りに北里社長が来ることに望みを託すしかない。
もしこんな勝手なことをしたと知られてしまえば、私は元に戻るどころかあの会社に近づくことさえ許されなくなるだろう。結果はどう転ぶかわからない。でも、これが私に残された最後の望みだ。
とっくに遠く離れた場所まで来ているのに、あの一瞬だけずっと頭にこびりついたままだ。夜風に触れていても、その瞬間が頭を横切る度に体全身が熱くなり、胸の鼓動が急激に早くなる。
これで何度、唇に触れただろうか。触らなくてとも自分が犯した過ちは、はっきりと分かるはずなのに。
唇に残る感触が頭を埋め尽くすから、私は真っ先に家の蛇口をひねる。でもゴシゴシと痛みすら感じるくらいに強くこすって洗い流しても、残る感触は変わってくれない。洗ったってその事実が消えてなくなるはずなんてないことは自分でもわかっている。私は何とも往生際の悪い人間だ。
そうだ、起こしたことはどうやったって変えられない。いま考えるべきはそこではない。明日の結果次第で、私が生き残るか滅びるか、その命運がかかっている。
頭ではそう理解できているのに、あの一瞬がそんな私の計画さえ阻もうとしてくる。早く明日になれば良いのに。そうすれば、新しい出来事であの一瞬もきっと上書きできる。そうやって目の前の問題から逃げるように眠りにつこうとするが、目を瞑るとますますあの瞬間がリアルさを増して鮮明に蘇ってくる。
眠りにつくその瞬間まで、瞼の裏にこびりついて離れない。