宝坂邸の箱庭

10 海辺にて

 教室の窓際に差しこむ陽射しが、厳しい寒さを少しだけ和らげた日のことだった。
 学期末試験の結果が決まり、受験願書の提出日が迫る頃、担任の先生が言った。
「宝坂さん、今年度の優秀者表彰、あなたに決まりましたよ」
 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で小さく鐘が鳴った気がした。
 この三年間、わたしはただ一つ「家族に恥をかかせないこと」だけを心に刻んで勉強してきた。
 未だ目標も、志望校もはっきり決まっていないわたしだけど、それだけは私の矜持だった。
 家に帰って表彰のことを義兄に打ち明けると、彼は手放しで喜んでくれた。
「病気がちだったのに、よくがんばったな。莉珠はほんとうにがんばりやだ」
 自分のことのようにうれしそうに、わたしの髪をくしゃくしゃと撫でる。
 その指のぬくもりは変わらないのに、わたしはたぶんちゃんと笑えていなかった。
 義兄が何か言おうとしたとき、奥の書斎から伯父の声がした。
「今夜は祝いだな。惣一も来るだろう?」
 伯父の言葉に、義兄は少しためらう素振りがあった。
 今までの表彰のときも、入学式や卒業式のときだって、義兄はいつも一緒に祝ってくれた。
「そう兄、忙しいでしょう? 今夜はいいよ」
「……悪い」
 やっぱり何か用事があったのだと思って、わたしはやっと苦笑した。
 ただそのとき、わたしの胸の奥がかすかに沈んだのは止められなかった。


 伯父は昔から、祝いのたびに子どもには不似合いなほど立派な席に連れて行ってくれた。
 その日も伯父が用意してくれたのは、お金以上に家の格式がなければ席が取れない老舗ホテルの最上階で、当然のように貸し切ってあった。
 ロビーまで迎えに出た支配人に席まで案内されて、大きな窓の向こうに広がる青灰の海を臨みながら食事をする。
 伯父は白いスーツの上着を支配人に預けて、王者のように席についた。
 義兄よりも少し背が低いけれど、姿勢の隙がなく、少し落とした照明の中で白皙の肌が浮かび上がる。五十代に至っても体型は引き締まっていて、荒いところはないが女性的なところも全くない。
 それでそこにいるだけで周囲の空気が張りつめるような、瞳の鋭さがあった。
「ワインをご用意しましたが、お嬢様にはどうされますか?」
「莉珠は体調が万全じゃない。料理の邪魔にならないような飲み物を用意してくれ」
「かしこまりました」
 けれど伯父はどんなときもわたしの体調を気遣って、時に足を引っ張るわたしを面倒がる素振りもなく温かい目でみつめていてくれた。
「よく頑張ったな、莉珠」
 ワインとフルーツジュースで乾杯をして、伯父は優しく言う。
「おまえも惣一も、私の誇りだよ。……愛している」
 その声は低く穏やかで、まるで潮の音色のようだった。
 わたしは思わず涙が出そうになって、うなずいた。
「ありがとう……。あのね、体育の単位が足りなくて、だめかと思ってたの。でもね、代わりにレポートを書いてね……」
 わたしはいつも伯父の前でだけはにぎやかな子どもになる。屈託なく笑って、わくわくと話した。
「そうか。慌ててそんなことを?」
「うん。わたし、あわてんぼうだから」
 ……最近、義兄の前では言葉に詰まってしまっていたから、心からくつろげるこの時間が愛おしかった。
 メインの肉料理を笑い合いながら食べて、ふとわたしは目を伏せた。
「ただ……志望校を、まだ迷ってて」
 これからの進路の話を、わたしは苦い思いで切り出した。
 本当は、いつか伯父や義兄のそばで、役に立てるような人になりたかった。
 でも悪いことはしちゃいけないと、今も思っている。伯父や義兄の仕事は、わたしのそんな気持ちといつまでも溶け合ってくれない。
 家族の方が大事だよ。いつまで自分の身勝手な信条にこだわっているの? ……そう自分を責める言葉が聞こえてくる気がする。
 だからなかなか伯父に進路のことを言えなかった。伯父の真意を聞くのを避けていた。
 伯父はじっと穏やかな目でわたしをみつめて、口を開いた。
「莉珠。おまえの好きなように生きなさい。……私たちは、おまえをこの仕事には縛らない」
 息を呑んだわたしに、伯父はわたしのこれからを祝福するように言う。
「どんな道を選んでもいい。高校を出て、家を出たいならそれでも構わない。おまえはきっと確実に、自分の足で歩いていくだろう」
 そこで伯父は少しだけ寂しそうに笑って告げた。
「ただ――私たちはいつまでも家族だ。それは忘れないでほしい」
 胸の奥が、静かに熱くなった。
 伯父の声はあいかわらず低く落ち着いているのに、その言葉の底には、わたしの知らない優しさが息づいていた。
 わたしは大きな感情の前で、目をにじませてうなずく。
「うん……うん。家族だけは、わたし、裏切らないから」
 震える声で言って、その言葉で誓う。
 伯父は冷徹な世界で生きている人だ。でも決してわたしをその冷たい風にさらさないで、懐に入れてくれた。
 だからわたしも、家族だけは心の温かいところに抱いていこう。あらためて伯父の優しさを胸に刻んで、そう思った。

 

 食事を終えて、わたしと伯父は海辺の遊歩道を歩いた。
 夜の風は冷たく、潮の香りが甘く混じっている。ホテルの光が背後に遠ざかって、波の音だけが響いていた。
 伯父はふと足を止めて言う。
「莉珠、前を見なさい」
 視線の先に、二人の人影が並んでいた。
 街灯の光を浴びて、義兄が女性と肩を並べて歩いていた。
 彼の隣の女性はすらりと背が高く、長い髪が夜風に揺れている。綺麗な人だけど……服や持ち物が派手で、どこか夜の街を思わせた。
 ――自分の息が止まった音を聞いた気がした。
 指先から力が抜けて、胸の奥が冷えていく。
 伯父が眉をひそめて、怒りというよりも不快をまとった。
 わたしは慌てて口を開く。
「伯父さん……いいの。そう兄の大事な人だから。そっとしておいて」
 伯父はしばらく沈黙していたが、やがて短く答えた。
「……わかった」
 それだけ言って、視線を逸らした。
 二人で何も言わずに車に戻る。
 道すがら、海の光がフロントガラスに揺れて映った。
 伯父は車を出すように命じると、独り言のようにつぶやく。
「惣一、ああいう女を連れるようになったか」
 それは呆れと、少しの哀しみを含んだ声だった。
 わたしは伯父の言葉に何も答えられなかった。
 胸の中で何かがきしむようにひび割れていって、言葉にならなかった。
 寄せては引く海の音が、まだ耳の奥で聞こえている。
 遠ざかる海を見ながら、家族という言葉だけを胸の中で抱きしめていた。
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