宝坂邸の箱庭

11 水と光を遠ざけて

 来週あたり、大きな寒波が来るらしいと聞いていた。
 授業の終わりを告げる鐘の響きも、いつもの音色のはずなのに耳に鈍く残る。
 わたしは受験願書を提出したものの、走り出せない心を抱えて毎日を送っていた。
 春はまだ遠く、教室の窓から入り込む風は震えるくらいに冷たかった。
 その日の放課後、わたしは担任に呼ばれて面談室に向かった。
 先生に紹介されて進み出た男性に、わたしは目を見開く。
「突然の訪問を許してください。お伝えしたいことがあって」
 柔らかな声で切り出したのは、簾さんだった。
 白いコートを畳んで腕に抱えていて、優しいブルーグレーのスーツ姿で頭を下げる。
 ただその目の奥には、何か気がかりそうな揺らぎがあった。
「どうして……?」
 先生が席を外すなり、わたしは思わず言葉をもらす。屋敷の外ではもう会わないと思っていた人だった。
「驚かせてごめん。まずは公的な用事から話すよ」
 簾さんは苦笑して、鞄から一枚の封筒を取り出した。
 封には清陀病院の印章が押されていて、わたしは簾さんと封筒を見比べる。
「実は例の病院での件、警察から説明を求められた。莉珠さんは、巻き込まれた関係者として警察へ報告することになっている」
「……関係者、ですか?」
「心配要らない。事情聴取というより安全確認だから」
 簾さんは眉を寄せて目を伏せる。
「すまなかった。君にあのような恐い思いをさせてしまった。だからまずは理事として謝罪を……そしてお礼を言いに来た」
 そう言って、彼は真摯に頭を下げた。
 その仕草は誠実で、それでいてどこか必要以上に丁寧にも思えた。
 わたしの胸の奥がざわめく。彼の訪問は、その言葉の理由だけではないような気がした。
「お気遣いなく。わたしは居合わせただけで、怪我もありませんでしたし、まして……お礼を言われるようなことはしていません」
 わたしが頭を下げると、簾さんは静かに首を振った。
「あの時、君は怯えながらも俺を気遣ってくれた。覚えている?」
「でも、何もできませんでした」
「みなパニックで、自分のことしか頭になかったのに。君は強いね。優しい強さを持ってる」
 簾さんはわたしをみつめてそう告げると、ふと苦笑した。
「嬉しかった。俺の立場や地位にすり寄る人間は山ほどいる。でも金銭の勘定もなく、ただ心配してくれたのは……君が初めてだったように思う」
 わたしの瞳が揺れたのを見て取って、簾さんは微笑む。
「たぶん俺は君に好意を持っているんだろうね」
 ……その言葉にわたしの胸が不自然な音を立てて、ぎゅっと絞られる。
 不意の宣言にわたしはなすすべもなくて、とっさに簾さんから目を逸らしてしまった。
「安心して。君に何かを返してほしいとは思ってない」
 そんなわたしに、簾さんは優しく言葉を続ける。
「けど、何かあげられるものはないかってずっと考えてた。……たとえば君が時々見せる影を払ってあげられないか」
 わたしの中で先ほどとは違う動悸がした。
 物心ついた頃からわたしには迷いがあった。悪いことをしてはいけないと思う反面、伯父や義兄の側にいたいと願う心を止められなかった。
 今もそのことで進路が決められず、心が揺れている。それを簾さんは見通したようで、どきりとした。
「電車の中で倒れたと聞いたよ。今もあまり顔色がよくないね」
 簾さんは言葉を切り、ふと声を落とした。
「報告書の関係で、もう一度病院まで来てもらいたい。そのついででいいから……一度、医師の診察を受けてみないか」
 穏やかにそう言われて、わたしは確かに迷った。
 最近疲れが取れなくて、眠りが浅い。たぶん精神的な変調なのだとは自分でわかっていたけど、簾さんにもそれが伝わるほどなのだと思った。
「……わたし、小さくて弱く見えるでしょうか」
 義兄がよくそう言うのを思い出して、わたしは気落ちしたような声で言っていた。
 簾さんはそれに微笑んで、いいえ、ときっぱりと否定する。
「初めて会ったときから、莉珠さんが小さくて弱いと思ったことはないよ。黒塗りの車を見てもまっすぐ俺を見返してきた。君は弱くなんてない」
 力づけるようにそう言われて、わたしは思いがけず光に照らされたような気持ちになった。
 揺れた目で見上げたわたしに、簾さんは憂いを浮かべて言った。
「ただ、君のお兄さんは宝坂邸の真珠のように君を育てたのだと思う。そこは風も当たらないような、守られた場所だっただろう。……でも水や光まで遮断していないか、心配になってね」
 簾さんのその言葉の意味の全部を理解したわけではなかった。
 けれど声の奥にあった憂いは、わたしの心に揺らぎをもたらした。
 ……水や光も入らないほど、守られたところ。
 その言葉に少し共感したのは、本当だった。
 簾さんと短くあいさつをした後、彼は静かに去っていった。
 窓から入り込む風が、そのあとを追うように吹き抜けた。
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