宝坂邸の箱庭
9 離れた手
花の透かし模様が描かれた障子の向こうで、朝の光が差している。
子どもの頃、わたしは喘息で寝込むことが多くて塞ぎがちだった。そんなわたしが少しでも明るい気持ちで目覚められるように、伯父と義兄が部屋の調度を変えてくれた。
朝の光が入りやすい東向きの窓、障子にしつらえた花の透かし模様、床の間の可愛らしい干支の置物。
どれを見ても伯父と義兄の優しい心遣いが見える光景なのに、その日だけは胸が締めつけられた。
体を起こすと、昨夜の記憶が波のように押し寄せてきて顔を覆った。
……夢だったらいいのにと思う。
考えるたび、胸の奥がざわめいて息がうまくできなかった。
廊下に出て洗面所に向かうと、食器の音がしている。
いつものように義兄がわたしの分も朝食を用意してくれている。
でも、今朝だけは顔を合わせる勇気がなかった。
わたしはそっと制服に袖を通して、髪を櫛で梳いた。
鏡の中の自分の顔は少し青ざめていて、目の下にうっすらと影がある。
小柄な体も、真っ黒な髪も、自分のはずなのに自分でない気がした。
足音を忍ばせて廊下に出て、台所の方を見ないようにして玄関へ向かう。
靴を履こうとしたとき、背後から義兄の声がした。
「莉珠?」
心臓が跳ねたわたしは、振り向かないまま言った。
「……先に行くね。遅れそうだから」
義兄が何か言う前に、ドアを開けてすぐに外に出た。
外の空気は冷たくて、吐く息が白かった。
痛むような風がかえってありがたくて、わたしは早足で歩いた。
でも駅までの道を急ぐうちに、視界が揺れはじめた。
元々それほど調子がよくない上に、わたしには貧血があった。伯父にも義兄にも、ちゃんと朝食を食べてから出かけなさいと言い聞かせられていて、今までちゃんとそれを守ってきた。
……でも今日は朝食の場に出る勇気が、どうしてもなくて。頭の奥で、血の気が遠のいていくのがわかる。人の波の中で、息が浅くなっていった。
電車に乗り込んでしばらくすると、もう立っていられなくなった。
吊り革を握る手が滑り、足元がふらつく。
わたしは座席と床の間にしゃがみ込んだ。
耳の奥で、電車の音が遠ざかっていく。
「莉珠!」
その声は、夢の中のように聞こえた。
顔を上げると、義兄が人の流れをかき分けて近づいて来た。
乗客たちの視線が集中する中で、彼は屈みこんでわたしを覗き込む。
肩に触れた手のひらは力強くて、けれど声は心配がにじんでいた。
「苦しいか。すぐ降りよう」
「……自分でできる。放っておいて」
わたしがようやく告げた声はかすれていて、説得力がないのは自分でもわかった。
義兄も一歩も退かず、低く怒ったように言う。
「放っておけるわけないだろう。俺は兄だぞ」
その言葉が胸の奥に刺さる。
兄……本当にそうなんだろうか。
昨日のキスを思い出すと、安心よりも痛みが走る。
わたしは何も言えず、ただ小さく首を振った。
まもなく電車が駅に止まる。
義兄は迷いなく、わたしを抱き上げた。ざわめく乗客の間を抜け、わたしを外へ運ぶ。
腕の中で、心臓の音が響いていた。
それが彼のものなのか、わたしのものなのか、もう区別がつかなかった。
構内を抜けて、駅舎の外の広場に出た。
義兄はわたしをベンチに座らせると、ジャケットを脱いでかけてくれた。
わたしの肩に手が触れたとき、不自然にその手が揺れた。
「車を呼ぶ。少し待っていろ」
義兄は手を離すと、短く言って携帯を取り出す。
その横顔はわたしと同じで、少し意地になっているようにも見えた。
電話を終えると、義兄はわたしを見下ろす。わたしはとっさに目を逸らして言っていた。
「ちがう……」
「莉珠?」
義兄が問い返す声に、わたしは泣きそうな気持ちでつぶやく。
「世間の兄は、もっと妹のこと、放っておく……よ」
わたしはじわりと目をにじませて、言わない方がいいことを口にしていた。
「そう兄……こわいんだよ。いなくならないで……」
……義兄はわたしのことを、本当の兄よりずっと大切にしてくれていたのに。その愛情を疑うなんて、しちゃいけなかった。
でも義兄は何もかも不確かなわたしの言葉を、直感で理解してしまったらしい。
「……ごめんな」
義兄は携帯を持つ手をだらりと下げて、後悔に沈んだ声で言った。
「そうだな。俺は、兄なんだ……」
まるで自分に言い聞かせるように告げて、義兄は口をつぐんだ。
わたしはその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
兄なんだ……そう言う彼の声が、どこか泣きそうに聞こえた。
やがて迎えの車が到着して、義兄はわたしの肩を支えながら乗せた。
車が動き出すと、窓の外の景色がゆっくりと流れていく。
わたしたちはまだお互いの顔を見れないまま沈黙していた。
車窓に映るわたしの顔もひどい顔色で、泣きそうに見えた。
外は重苦しい曇天で、わたしと義兄の間に下りた沈黙も晴れる気配がなかった。
子どもの頃、わたしは喘息で寝込むことが多くて塞ぎがちだった。そんなわたしが少しでも明るい気持ちで目覚められるように、伯父と義兄が部屋の調度を変えてくれた。
朝の光が入りやすい東向きの窓、障子にしつらえた花の透かし模様、床の間の可愛らしい干支の置物。
どれを見ても伯父と義兄の優しい心遣いが見える光景なのに、その日だけは胸が締めつけられた。
体を起こすと、昨夜の記憶が波のように押し寄せてきて顔を覆った。
……夢だったらいいのにと思う。
考えるたび、胸の奥がざわめいて息がうまくできなかった。
廊下に出て洗面所に向かうと、食器の音がしている。
いつものように義兄がわたしの分も朝食を用意してくれている。
でも、今朝だけは顔を合わせる勇気がなかった。
わたしはそっと制服に袖を通して、髪を櫛で梳いた。
鏡の中の自分の顔は少し青ざめていて、目の下にうっすらと影がある。
小柄な体も、真っ黒な髪も、自分のはずなのに自分でない気がした。
足音を忍ばせて廊下に出て、台所の方を見ないようにして玄関へ向かう。
靴を履こうとしたとき、背後から義兄の声がした。
「莉珠?」
心臓が跳ねたわたしは、振り向かないまま言った。
「……先に行くね。遅れそうだから」
義兄が何か言う前に、ドアを開けてすぐに外に出た。
外の空気は冷たくて、吐く息が白かった。
痛むような風がかえってありがたくて、わたしは早足で歩いた。
でも駅までの道を急ぐうちに、視界が揺れはじめた。
元々それほど調子がよくない上に、わたしには貧血があった。伯父にも義兄にも、ちゃんと朝食を食べてから出かけなさいと言い聞かせられていて、今までちゃんとそれを守ってきた。
……でも今日は朝食の場に出る勇気が、どうしてもなくて。頭の奥で、血の気が遠のいていくのがわかる。人の波の中で、息が浅くなっていった。
電車に乗り込んでしばらくすると、もう立っていられなくなった。
吊り革を握る手が滑り、足元がふらつく。
わたしは座席と床の間にしゃがみ込んだ。
耳の奥で、電車の音が遠ざかっていく。
「莉珠!」
その声は、夢の中のように聞こえた。
顔を上げると、義兄が人の流れをかき分けて近づいて来た。
乗客たちの視線が集中する中で、彼は屈みこんでわたしを覗き込む。
肩に触れた手のひらは力強くて、けれど声は心配がにじんでいた。
「苦しいか。すぐ降りよう」
「……自分でできる。放っておいて」
わたしがようやく告げた声はかすれていて、説得力がないのは自分でもわかった。
義兄も一歩も退かず、低く怒ったように言う。
「放っておけるわけないだろう。俺は兄だぞ」
その言葉が胸の奥に刺さる。
兄……本当にそうなんだろうか。
昨日のキスを思い出すと、安心よりも痛みが走る。
わたしは何も言えず、ただ小さく首を振った。
まもなく電車が駅に止まる。
義兄は迷いなく、わたしを抱き上げた。ざわめく乗客の間を抜け、わたしを外へ運ぶ。
腕の中で、心臓の音が響いていた。
それが彼のものなのか、わたしのものなのか、もう区別がつかなかった。
構内を抜けて、駅舎の外の広場に出た。
義兄はわたしをベンチに座らせると、ジャケットを脱いでかけてくれた。
わたしの肩に手が触れたとき、不自然にその手が揺れた。
「車を呼ぶ。少し待っていろ」
義兄は手を離すと、短く言って携帯を取り出す。
その横顔はわたしと同じで、少し意地になっているようにも見えた。
電話を終えると、義兄はわたしを見下ろす。わたしはとっさに目を逸らして言っていた。
「ちがう……」
「莉珠?」
義兄が問い返す声に、わたしは泣きそうな気持ちでつぶやく。
「世間の兄は、もっと妹のこと、放っておく……よ」
わたしはじわりと目をにじませて、言わない方がいいことを口にしていた。
「そう兄……こわいんだよ。いなくならないで……」
……義兄はわたしのことを、本当の兄よりずっと大切にしてくれていたのに。その愛情を疑うなんて、しちゃいけなかった。
でも義兄は何もかも不確かなわたしの言葉を、直感で理解してしまったらしい。
「……ごめんな」
義兄は携帯を持つ手をだらりと下げて、後悔に沈んだ声で言った。
「そうだな。俺は、兄なんだ……」
まるで自分に言い聞かせるように告げて、義兄は口をつぐんだ。
わたしはその言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締めつけられた。
兄なんだ……そう言う彼の声が、どこか泣きそうに聞こえた。
やがて迎えの車が到着して、義兄はわたしの肩を支えながら乗せた。
車が動き出すと、窓の外の景色がゆっくりと流れていく。
わたしたちはまだお互いの顔を見れないまま沈黙していた。
車窓に映るわたしの顔もひどい顔色で、泣きそうに見えた。
外は重苦しい曇天で、わたしと義兄の間に下りた沈黙も晴れる気配がなかった。