宝坂邸の箱庭

12 おしつぶされた夜

 海辺で女性と歩いているのを見かけた頃から、義兄は外出が多くなった。
 朝は必ずわたしに朝食を用意して、貧血にならないようにと前以上に気を配っていてくれるけれど、夜はたびたび帰ってこない日もあった。
 寂しいと言えないのは、義兄のキスのことが今も心に痛みを伝えてくるから。
 夜の街の女性との関係は、義兄の仕事を思えば私が何か言うものじゃない。義妹に危うい感情を持つより、よほど健全な好意かもしれなかった。
 ……子どもの頃のように、ただいっぱいに義兄に手を伸ばせたなら。そんな幼い夢想を呑み込んで、ぎこちなく義兄と距離を取りながら過ごしていた。
 わたしは胸の奥に沈む痛みを抱えたまま、いつもより早く家を出て、夜は義兄と顔を合わせるのを避けるように自室にこもっていた。
 その日家に帰ると、伯父も義兄もいなかった。
 書斎の灯りは消えていて、廊下に立つと静けさだけが漂っていた。
 冷たい沈黙の中に、光を求めるようにわたしは窓の外を見た。
 ……少しだけ、外の空気が吸いたい。
 気づけばコートを羽織って、外に出ていた。
 夜の道を抜けて、駅前でタクシーを拾う。
 行き先を告げたとき、自分の声が他人のように聞こえた。
 清陀記念病院は、昼間とは違う顔をしていた。
 夜の光に包まれた建物は、まるでそれ自体が病人のように白く、ひっそりと静まり返っている。
 受付の女性に簾さんの名刺を見せると、「お待ちしていました」と微笑んで、わたしを奥の診療棟へ案内した。
 廊下の突き当たり、硝子のドアの向こうに簾さんがいた。
 今日はスーツ姿ではなく、紺のセーターの上に上着を羽織り、書類を手にしている。
 こちらに気づくと、彼は静かに微笑んだ。
「来てくれたんだね。ありがとう」
「いえ、事前にご連絡もせず来てしまって」
「いいんだよ。病院は調子が悪いときに来るものだ」
 簾さんの声はいつもと変わらず落ち着いていて、わたしの突然の訪問も快く受け止めてくれた。
 ふいにじっとわたしをみつめた簾さんに、わたしはすぐに不調のことを切り出せなかった。
「警察への書類の件を……」
「ああ。先にそれを整えよう」
 わたしがとっさにそう言うと、簾さんはうなずいてその公的な用事の話をした。
 事件の日の出来事、怪我がなかったか、その後トラブルに巻き込まれていないか、そういったことをわたしから聞き取って、簾さんは書類にしたためていく。
 報告書は三十分ほどでまとまったようだった。簾さんはわたしにお礼を言って、カルテのようなボードを閉じた。
 沈黙が流れたあと、簾さんが言った。
「喘息の検査の前に、カウンセリングを受けてみない? 難しいものじゃない。うちの病院は、学生向けのコールセンターも持っているんだよ」
 わたしはこくりとうなずく。わたしの学校にも、清陀記念病院からのカウンセラーが時々訪問していた。
 でもわたしが簾さんの後をついていくと、彼はエレベーターに乗って最上階のボタンを押した。
 ……気軽なカウンセリングが、最上階という特別な場所で行われるものだろうか。
 少し違和感を抱きながら案内された先は、格別に広い診察室だった。
 白い壁とレースのカーテン、花の香りが微かに漂っている。
 そして壁一面を覆うほどのモニターがあって、映画さえ上映できそうなところだった。
 そのモニターに背を向けて、白衣の女性が腰掛けていた。
 年齢は五十代ほどだろうが、背筋が伸びていて若々しく、その所作はどこか気高い。
「母だよ」
 簾さんがそう言った。
「この病院の副院長でもある」
 女性――簾さんの母は、ゆっくりとこちらを振り向いた。
 肌の白さと瞳の深さが印象的で……心の奥に微かな既視感が走る。
「簾が世話になったわね」
 穏やかだが、底の方に冷たい響きを孕んだ声だった。
「とんでもない。こちらこそ」
「簾から話は聞いているの。勇気があって、理知的で」
 彼女は淡い微笑を浮かべて、立ち上がった。
「簾、席を外して。……ここからは、治療よ」
 その「治療」という響きは、なぜかわたしに恐れをもたらした。
 わたしは診察室から出て行く簾さんを目で追ってしまった。その間に、彼女はわたしに近づいて来る。
「疲れた顔をしてる。診てあげるわ」
 そう言って、女性はわたしのこめかみに触れた。
 指先が冷たくて、そのあまりの冷たさにわたしは息を呑む。
 目の奥で小さな光がちらついて、世界が少し歪んだ。
「よく眠れていないようね。不眠に効果的な映像があるの。流してみましょう」
「……わ、たし」
 医師としての言葉なのに、わたしは悪寒がしてならなかった。
 断ろうとする前に、彼女は部屋の電気を消してしまう。
 途端に部屋の中には潮騒のような音があふれた。ちかちかと光る画面が、不穏なほど目に焼き付く。
「こんなに綺麗な娘になって」
 ふいに女性がそう言ったとき、わたしは暗闇の中で彼女を見上げた。
 彼女は聖職者が運命を憂えるように、美しく顔を歪めてわたしを見ていた。
「惣一だけでなく、簾まで……どこまで罪深いのかしら」
 それを聞いた瞬間、きつく閉じていた記憶の蓋が開く音が聞こえた。
「……伯母、さん」
 わたしの言葉に、薄く優雅な唇が弧を描く。
「莉珠。……兄と妹で愛し合うなんて、穢らわしいわね?」
 誘導尋問のような問いが、わたしの中をざくりと棘で刺した。
「う、……ああ、う……っ」
 わたしはありもしないはずのその痛みに悲鳴を上げて、モニターを消そうと手を伸ばす。
 胸が、頭が痛い。体の中をざらざらの棘で撫でられていくような心地がする。わたしの中の汚れを、たわしで流れ落としていくように。
 悪いことは、しちゃいけない。……兄と妹で愛し合うなんて、しちゃいけない……。どろりとした倫理観が、わたしを押しつぶしていく。
 伯母はわたしの手の先からリモコンを取り上げて、代わりにわたしの手ごとリモコンを強く握りしめる。
「そう、あなたって汚いのよ。……だから綺麗にしなきゃね」
 目が溶けるような激しい光がモニターから放たれて、わたしは呼吸も止めていた。
 わたし、汚い……綺麗にしなきゃ。
 じゃないと、もう一緒にいられなくなる……。
 ……一緒? だれ、と?
 そこまで思ったところで頭も体の痛みも限界だった。
 わたしは椅子から滑り落ちて、その場で意識を手放した。 
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