宝坂邸の箱庭

13 無機物の朝

 明け方に屋敷へ戻ったとき、空は深い紺の海だった。
 あの子の側を離れている時間は虚無のような気分だが、側にいたらまた傷つけてしまうかもしれない。自分を貶めるように、楽しくもない夜遊びを繰り返していた。
 今の時間はもちろん寝ているだろう。そう諦観のように思って、玄関に入る。
――莉珠の靴がない。
 ぞっとするような悪寒に襲われた。昨日からの雨が靴底に重く残っているせいではなく、泥沼に浸かるような思いがした。
 玄関に駆けこんで莉珠の部屋に向かう。その途中で、居間の電話が鳴り出した。
 こんな時間に、電話?
 嫌な予感がして、足を止めていた。
「……宝坂だ」
 受話器を取ると、電話口の向こうで相手は一瞬沈黙したようだった。
 相手は慎重に息をついて、静かな声で返す。
『清陀だ。今日は争うつもりはない。伝えることがある』
 俺は目をすがめたが、簾の次の言葉に顔をしかめる。
『莉珠さんが昨夜、体調を崩してうちの病院に来た』
「――病院に?」
『入院が必要だ。だからしばらく預からせてほしい』
 俺は呼吸が速くなっていくのを感じながら、短く告げた。
「すぐに迎えに行く」
『申し訳ないが、今は会わせられない』
「どういう意味だ」
 電話の向こうで、簾が息を吐いた。
『心が不安定な状態なんだ。刺激を与えたくない。医師の判断だ』
「ふざけるな」
 吐き捨てるように告げて、俺は壁の向こうに簾がいるように前をにらみつける。
「妹が病院に運ばれたと聞いて、黙っていられると思うか」
『……都合のいいときだけ兄の名を使うんだな』
 その簾の言葉は、冷たい隙間風のように響いた。
『本当に兄なら、彼女は今頃家で眠っていただろう。……君が、悪い』
 そこで通話が途切れた。
 俺は簾の言葉に不可解なものを感じたが、だからといって迷う時間はなかった。「俺を責められるのは莉珠だけだ」
 居間を引き返して、すぐさま車庫に戻る。
 エンジンの音が静かな屋敷を震わせた。
 空がわずかに明るみはじめて、東の雲が朱に染まりかけていた。
 病院に着いたとき、ちょうど朝の光が建物の硝子に反射していた。
 白く、冷たい光を跳ねのけるように足を進めた。
 夜間入口から入って、名刺を突きつける。
「宝坂家の者だ。――清陀簾に会わせろ」
 職員が慌てて内線を取って、まもなくして簾が現れた。
 この時間だというのにスーツ姿で、夜を通して仕事をしていたのか、目の下に影が落ちていた。
「来ると思っていた」
「莉珠に会わせろ」
「今はできないと言った」
「言い訳は要らん」
 俺は一歩前に出て簾の胸倉をつかむ。
「……そちらにその気がなくとも、俺は最初から争う気だ」
 その低い声に、遠巻きにうかがっていた者たちが息を呑んだ。
 簾は首を横に振って彼らを制し、俺をまっすぐに見据える。
「わかった。会わせよう。……君には連れ帰れないだろうが」
「どういう意味だ」
「来い」
 簾は振り返り、無言のまま廊下を進んだ。俺も黙ってその背を追う。
 エレベーターに乗って、簾は最上階のボタンを押した。鈍い浮遊感とともに、不穏な心地も大きくなる。
 目的の階に着くと、そこはホテルのようにじゅうたんが敷かれ、骨董のような調度が立ち並ぶエリアだった。一般の患者は立ち入れない特別病棟らしかった。
「ここだ」
 簾が足を止めて一つの扉を開けると、冷たい光が満ちた。
 カーテンは半ば閉じられ、白い床に薄い朝の影が落ちている。
 部屋の隅――そこに、莉珠がいた。
 膝を抱えて、壁にもたれ、うずくまって小さくなっている。
「……莉珠?」
 髪は乱れ、その白い病衣にはうっすらと血がにじんでいた。
「どうした、莉珠……!」
 駆け寄って、迷わず手を伸ばす。
 肩に触れて顔をのぞきこむと、その瞳は焦点を結んでいなかった。
 俺が揺さぶっても、人形のように首がだらりと垂れる。
 けれど莉珠の手は忙しなく動いていて、自分の腕といわず足といわず、しきりに爪を立ててかきむしっているようだった。
「やめろ、血が……!」
 手を握って止めようとすると、莉珠が小声で何か繰り返しているのが聞こえた。
 ……取って、取って。汚い。きたない、の……。
「莉珠」
 息を呑んだ俺の間に、ふいに簾が手を伸ばした。
「大丈夫。莉珠は、汚くなんてないよ」
 ふわりと簾が莉珠を抱き上げると、莉珠の表情が少しだけ緩んだ。
 莉珠は子どもが母の胸にすがるように簾の胸に頬を寄せて、ぽとりと涙を落とす。
「……にいさん」
 次々と莉珠の頬を涙がつたっていく。その目はうつろなまま、莉珠は安心したように簾に体を預けて息をついた。
 俺は時が止まったように硬直して、ひととき呆然と二人を見上げた。
 ――にいさん。
 その呼び方を、確かに莉珠は簾に向けた。
「……おまえ、莉珠に何をした」
 自分の声はもしかしたら震えていたかもしれない。尋常でない莉珠の様子と、まるで俺の立場にすり替わったような簾に、怒りでは抑えきれない感情を抱く。
 簾は莉珠を抱き上げたまま、悲しげに首を振った。
「君の父に訊くといい」
 俺が目を見張ると、簾は静かに続けた。
「これ以上莉珠を刺激しないでくれ。心が壊れてしまう」
 簾の言葉を信じたというより、今にも壊れそうな莉珠が、その言葉を嘘でないと伝えていた。
 俺はその場に立ち尽くしたまま、莉珠の小さな肩に手を伸ばす。
 莉珠はまだぽろぽろと涙を落としていた。俺の方を見るどころか、目には何も映っていない。
 ……だめだ。乱暴に扱ったら、壊れてしまう。手をきつく握りしめて、今すぐ引き寄せたい思いを振り払った。
 俺は深く息を吐き、静かに言った。
「わかった。今は引く。だがすぐ迎えに来る」
 簾は黙ってうなずいた。
 俺はもう一度莉珠をみつめてから、踵を返した。
 扉が閉まる音と同時に、父に問う言葉を考える。
 廊下に差し込む朝日は無機物そのものの赤さで、まだ空の向こうには何も見えなかった。
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