宝坂邸の箱庭
14 幼い誓い
病院を出たとき、夜明けの光が目に痛かった。
脳裏に残るのは、うずくまる莉珠の姿と、彼女が別の男に向けて呼んだ「にいさん」という声。その響きが何度も頭の中でこだまする。
一刻も早く、莉珠に何が起きたのか知る必要があった。
俺はハンドルを切り、屋敷とは逆方向――港の外れにある本社ビルへ車を走らせた。
表向きは製薬会社「宝坂医薬工業」。
だが実態は、医療の隙間で生まれる需要を満たす闇の供給元だ。認可の下りない劇薬や麻酔、裏市場で取引される試薬までを扱う。
父と俺が率いるその企業は、法の狭間で生きる者たちを相手にしていた。
早朝には社員の姿はなく、建物全体が眠っているように静かだった。
自動ドアが開くと、無菌室のような冷たい空気が流れ込む。
エレベーターで最上階まで上がり、会長室の前室をノックした。
秘書に取り次ぎを頼むと、まもなく父が出てきた。
奥には会長用の仮眠室があって、父は遅くまで仕事をした日にはそこで休むことがある。けれど現れた父は、寝起きとは思えないほど冴えた表情をしていた。
白髪の混じる髪を手で整えながら、父は俺の顔を見て言う。
「惣一、どうした。……何かあったか」
その問いかけは深刻な声音で、俺はひどい顔をしているのだと思った。
俺は深く息を吸ってから言った。
「莉珠が入院しました。……清陀記念病院に」
父は目をぴくりと動かして、莉珠が、とつぶやく。
「容体は」
「精神的に錯乱していました。自傷行為をしていて……俺を見ても怯えた。簾は「君の父に訊け」と」
その事実を話した瞬間、父は片手で顔を覆った。
長い沈黙ののち、父の喉からかすれた声がこぼれる。
「やつめ……なんてことを」
その声に、初めて父の人間らしい動揺を見た。
仮面のように感情を見せない人が、心の痛みを隠せていなかった。
「誰の仕業です」
俺が問うと、父は椅子に腰を下ろし、ゆっくりと顔を上げた。
その目の奥に重い影が宿る。
「……保奈美だ。莉珠の心に手を入れたのだろう」
自分の息が止まったのがわかった。
「あの人が……」
「そうだ。元は私たちの家族だった女。……おまえは母と呼ぼうともしないが」
父は暗い目で俺を見ながら告げる。
「清陀の一族は、心を触る。表向きは心理療法と言って、実際には人の認識を書き換える。いわば、洗脳の一種だ」
父の声は低く、冷え切っていた。
「保奈美は昔からその技術に惹かれていた。あの女は、医者としての好奇心と野心を持ちすぎていた。私と結婚している間に、清陀と通じ、やがて向こうに渡った」
「簾の……義母になったんですね」
「そうだ」
父は机上のペンを関節が白くなるほどに握りしめる。
「宝坂家の血を汚した女だ。だが、あの女の執着は今も続いている。……自分の手で作った新しい家族に、私たちを跪かせようとしている」
俺は胸の奥に熱が広がるのを感じた。怒りとも悲しみともつかぬ熱が、爆発的に体を支配する。
ぎりっと奥歯をかみしめてつぶやく。
「莉珠を、実験台のように扱ったのか」
父は眉間にしわを寄せて返す。
「おまえたちはここしばらく、距離を置いていたな。おそらくそれに付け込まれた。……莉珠はおまえへの愛着を、罪悪に書き換えられたんだろう」
罪悪と聞いて、喉が焼けるような思いがした。
莉珠が人形のように投げ出していた手の温度が蘇る。
幼い日、莉珠はいっぱいに俺へと手を伸ばしていた。その手を取って抱き上げたときのぬくもりが、今も少しも色あせずに体に残っている。
「……莉珠のためなら。俺はいつまでだって、兄のままでいい」
父が聞いているのも忘れて、俺は言葉に出していた。
「兄で、いいんだ……」
父は深く息を吐いて、目を閉じた。
「無理に連れ帰って記憶を戻そうとすれば、心が壊れる。今はおまえが触れるだけでも、莉珠には恐怖になる」
「父さん。俺は……」
「本当に兄でいられるか?」
父は静かに俺を見て問いかけた。
俺は一瞬息を呑んで、その言葉を心で繰り返す。
「莉珠にとって優しい時間で包めるか? ……最初は拒絶されるかもしれない。それでも辛抱強く側にいて、離れない。……おまえにそれができるか?」
俺は目を閉じて先刻までの光景を思った。
莉珠の震える体、怯えた瞳、そしてあの涙が目の前に蘇る。
……怖がらないで大丈夫だと、優しい時間で包む。そう自分に誓う。
「わかりました」
目を開いて、声に力を込める。
「俺が看病します。……あの子が俺を怖れないようになるまで」
父は小さくうなずいた。
「私も動こう。保奈美がこれ以上莉珠の心を壊さないよう、清陀の宗家と交渉する」
その声には、長年押し殺してきた痛みが滲んでいた。
俺は立ち上がり、デスクの端に手を置いた。
「……俺は、あの女が許せない」
「許す必要はない。ただ……憎しみのために莉珠を巻き込むな。莉珠は家族だ。だが、本来なら私たちの血の因縁に巻き込むべきじゃない子だ」
俺はうなずいて、部屋を出た。
廊下に朝日が差し込んでいる。けれど窓ガラスに映るその光は、まるで薬品の表面のように青白く、どこか不穏な輝きを帯びている。
「莉珠。……俺の」
その先の言葉は続けられなかった。
ずいぶん前から、俺の手は汚れている。けれどあの子の前では優しい兄でいよう。あの子が俺に預けてくれた、無心の安息のために。
……そう誓った幼い日の心が、今も俺の中にあるから。
脳裏に残るのは、うずくまる莉珠の姿と、彼女が別の男に向けて呼んだ「にいさん」という声。その響きが何度も頭の中でこだまする。
一刻も早く、莉珠に何が起きたのか知る必要があった。
俺はハンドルを切り、屋敷とは逆方向――港の外れにある本社ビルへ車を走らせた。
表向きは製薬会社「宝坂医薬工業」。
だが実態は、医療の隙間で生まれる需要を満たす闇の供給元だ。認可の下りない劇薬や麻酔、裏市場で取引される試薬までを扱う。
父と俺が率いるその企業は、法の狭間で生きる者たちを相手にしていた。
早朝には社員の姿はなく、建物全体が眠っているように静かだった。
自動ドアが開くと、無菌室のような冷たい空気が流れ込む。
エレベーターで最上階まで上がり、会長室の前室をノックした。
秘書に取り次ぎを頼むと、まもなく父が出てきた。
奥には会長用の仮眠室があって、父は遅くまで仕事をした日にはそこで休むことがある。けれど現れた父は、寝起きとは思えないほど冴えた表情をしていた。
白髪の混じる髪を手で整えながら、父は俺の顔を見て言う。
「惣一、どうした。……何かあったか」
その問いかけは深刻な声音で、俺はひどい顔をしているのだと思った。
俺は深く息を吸ってから言った。
「莉珠が入院しました。……清陀記念病院に」
父は目をぴくりと動かして、莉珠が、とつぶやく。
「容体は」
「精神的に錯乱していました。自傷行為をしていて……俺を見ても怯えた。簾は「君の父に訊け」と」
その事実を話した瞬間、父は片手で顔を覆った。
長い沈黙ののち、父の喉からかすれた声がこぼれる。
「やつめ……なんてことを」
その声に、初めて父の人間らしい動揺を見た。
仮面のように感情を見せない人が、心の痛みを隠せていなかった。
「誰の仕業です」
俺が問うと、父は椅子に腰を下ろし、ゆっくりと顔を上げた。
その目の奥に重い影が宿る。
「……保奈美だ。莉珠の心に手を入れたのだろう」
自分の息が止まったのがわかった。
「あの人が……」
「そうだ。元は私たちの家族だった女。……おまえは母と呼ぼうともしないが」
父は暗い目で俺を見ながら告げる。
「清陀の一族は、心を触る。表向きは心理療法と言って、実際には人の認識を書き換える。いわば、洗脳の一種だ」
父の声は低く、冷え切っていた。
「保奈美は昔からその技術に惹かれていた。あの女は、医者としての好奇心と野心を持ちすぎていた。私と結婚している間に、清陀と通じ、やがて向こうに渡った」
「簾の……義母になったんですね」
「そうだ」
父は机上のペンを関節が白くなるほどに握りしめる。
「宝坂家の血を汚した女だ。だが、あの女の執着は今も続いている。……自分の手で作った新しい家族に、私たちを跪かせようとしている」
俺は胸の奥に熱が広がるのを感じた。怒りとも悲しみともつかぬ熱が、爆発的に体を支配する。
ぎりっと奥歯をかみしめてつぶやく。
「莉珠を、実験台のように扱ったのか」
父は眉間にしわを寄せて返す。
「おまえたちはここしばらく、距離を置いていたな。おそらくそれに付け込まれた。……莉珠はおまえへの愛着を、罪悪に書き換えられたんだろう」
罪悪と聞いて、喉が焼けるような思いがした。
莉珠が人形のように投げ出していた手の温度が蘇る。
幼い日、莉珠はいっぱいに俺へと手を伸ばしていた。その手を取って抱き上げたときのぬくもりが、今も少しも色あせずに体に残っている。
「……莉珠のためなら。俺はいつまでだって、兄のままでいい」
父が聞いているのも忘れて、俺は言葉に出していた。
「兄で、いいんだ……」
父は深く息を吐いて、目を閉じた。
「無理に連れ帰って記憶を戻そうとすれば、心が壊れる。今はおまえが触れるだけでも、莉珠には恐怖になる」
「父さん。俺は……」
「本当に兄でいられるか?」
父は静かに俺を見て問いかけた。
俺は一瞬息を呑んで、その言葉を心で繰り返す。
「莉珠にとって優しい時間で包めるか? ……最初は拒絶されるかもしれない。それでも辛抱強く側にいて、離れない。……おまえにそれができるか?」
俺は目を閉じて先刻までの光景を思った。
莉珠の震える体、怯えた瞳、そしてあの涙が目の前に蘇る。
……怖がらないで大丈夫だと、優しい時間で包む。そう自分に誓う。
「わかりました」
目を開いて、声に力を込める。
「俺が看病します。……あの子が俺を怖れないようになるまで」
父は小さくうなずいた。
「私も動こう。保奈美がこれ以上莉珠の心を壊さないよう、清陀の宗家と交渉する」
その声には、長年押し殺してきた痛みが滲んでいた。
俺は立ち上がり、デスクの端に手を置いた。
「……俺は、あの女が許せない」
「許す必要はない。ただ……憎しみのために莉珠を巻き込むな。莉珠は家族だ。だが、本来なら私たちの血の因縁に巻き込むべきじゃない子だ」
俺はうなずいて、部屋を出た。
廊下に朝日が差し込んでいる。けれど窓ガラスに映るその光は、まるで薬品の表面のように青白く、どこか不穏な輝きを帯びている。
「莉珠。……俺の」
その先の言葉は続けられなかった。
ずいぶん前から、俺の手は汚れている。けれどあの子の前では優しい兄でいよう。あの子が俺に預けてくれた、無心の安息のために。
……そう誓った幼い日の心が、今も俺の中にあるから。