宝坂邸の箱庭
15 壊せない世界
翌日、会社から見る海の向こうは灰色の雲が垂れこめていた。
窓から臨む港の水面は、いつもより濁って見える。
俺は屋敷に戻らず会社に出て、表面上は淡々と仕事をこなした。
けれど会合に出ても、大口の取引の報告を部下から受けても、一人で執務室にいたとしても、自分が空虚な目をしているのに気づいていた。
一晩のうちに世界が暗闇に落ちたような気分だった。
頭の中で、あのときの莉珠の姿が何度も浮かんでは消える。
血がにじむ手足を抱えて、震えていた。無理に引き寄せたなら、壊れてしまいそうだった。
眠っていない様子の俺に、父は屋敷に戻るよう言ったが、首を横に振った。今は莉珠のいない屋敷に戻りたくなかった。
簾に無理やり指定した面会時間が来るのを、夜明けを願う心地で待っていた。
午後四時、俺は再び清陀記念病院へ向かった。
裏口のガラス扉に映る自分の顔は、何の表情もなかった。
俺の名を伝えると、守衛は内線で連絡を取った。ほどなくして、簾が現れる。
グレーのスーツ姿は変わらず、疲労の影もなく背筋は伸びていた。
ただその目の奥には、昨日よりも深い陰りが宿っていた。
「……今は距離を置いてほしいと言ったはずだ」
「悪魔の腹の内に妹を置いたままにできると思うか」
俺がにらむように見ると、簾はかすかに眉を上げた。
「自分の母親でもある人を、悪魔と?」
「あの人は以前も莉珠を傷つけた。とっくに情は切れてる」
俺は冷えた声音で断言すると、刃を向けるように続ける。
「一日、待った。……莉珠を返せ。俺が看病する」
簾は俺と同じ目線から、突き放すように返す。
「できない。医師の元で治療の必要がある。それ以上強行に主張するなら、措置入院の判断を下す」
医師の権力を使って家族から引き離す手段を見せた簾に、俺は目を険しくした。
母と簾が一枚岩だとまでは思っていない。簾が莉珠に触れた手には優しさがにじんでいた。治療というのも、本当に莉珠の回復のためかもしれない。
……だが、莉珠の兄は俺だ。そちらがそう出るのならと、俺は考えを変える。
「何をすればいい」
俺には名家たる宝坂の男の矜持がある。普段は下手に出る必要などない。
「頭を下げろというなら、下げる。……頼む、少しでもいい。莉珠に会わせてくれ」
けれど莉珠のためなら別だった。俺の自尊心など、莉珠を無事に連れ帰るためならいくらでも踏みつぶしてみせる。
「君は……」
驚いた様子の簾に、俺はまっすぐに見返して言葉を続ける。
「俺が苦しむのは構わない。だが今は莉珠が苦しんでる。うちで一番小さくて、弱いあの子を守れないなら、俺は家族じゃない」
簾はしばらく黙っていた。その沈黙の中で、冷たい蛍光灯の音がやけに響く。
やがて、彼は小さくため息をついた。
「……五分だけだ」
俺はうなずいて、逸る気持ちを抑えながら簾の後に続いた。
昨日と同じ特別病棟のフロアへ上がる。
廊下の窓から見える景色は曇りに沈んでいた。重い雲が海を覆い、光がどこにも落ちていない。
病室のドアを開けると、静寂が押し寄せた。
白いカーテンは閉め切ったままで、空気清浄機が音を立てていた。
ベッドの上、莉珠は薄いブランケットに包まれていた。
自傷行為を抑えるためなのだろう。昨日とは違って、手首に拘束具がついていた。
体を小さく丸めて、咳をしていた。
簾が一歩後ろに下がり、俺に視線で合図を送る。
「刺激を与えないように。呼びかけるときも、そっと」
「わかってる」
俺はベッドのそばに立ち、そっと息を整えた。
莉珠の顔色は青く、唇が乾いている。少しの間離れていただけなのに、痩せたような気がした。
その横顔に、幼い日の面影が重なる。
莉珠が庭で転んで、俺が慌てて駆け寄ったときのことだった。痛くないかと問いかけた俺に、俺の袖を握って「……だいじょうぶ」と一生懸命痛みをこらえて言ったあの顔。
……莉珠は、とても弱いのに優しい心根の子だ。あのときも、膝に傷を作っていたのに、俺が心配するからと泣かなかった。今も誰かに縋ることもせず、ただ自分を傷つけてがまんしている。
「莉珠」
俺はできる限り優しくその名を呼んだ。
声は少し震えた。祈るような声色だった。
それでも莉珠には怖かったらしい。焦点の合わない目をさまよわせて、怯えたように枕に頬をすり寄せた。
一瞬だけ、彼女の唇が動いた。
「……消え、たい」
暗闇の中で一人立ちすくんだような声だった。
今、心の世界で彼女は一人なのだと見せつけられた。
俺は手を伸ばしかけて、途中で止めた。
そんな寂しい世界、今すぐ壊してやりたい。……でもその結果、彼女の心までばらばらになってしまったら?
俺は触れる代わりに、そっとベッドの端に腰を下ろした。
手を握ることもできず、ただ近くに座る。
「ここにいるよ。……ひとりにしない。おまえの側にいる」
莉珠が、それを兄の言葉だと理解できたかはわからない。ただ今度は、莉珠は怯えることなく黙って聞いていた。
莉珠は咳をして、静かにまぶたを閉じる。胸が上下して、眠りに入ったようだった。
五分が経ったころ、簾が小さく首を振った。
俺は立ち上がり、振り返りながら病室を出る。
廊下に出た瞬間、置いていくのが惜しくてならなかった。
簾が後ろから言う。
「……彼女、ずっと眠れていなかったんだ」
「そうか」
「ありがとう」
俺は簾に背を向けたまま、首を横に振った。
病院を出ると、雨が降り始めていた。
小さな雨粒がアスファルトを打ち、空気を静めていく。
その音を聞きながら、俺は傘も差さずに立ち尽くした。
莉珠を今すぐ連れて帰りたい思いと戦いながら、すべきことを考える。
白い建物を傾いた陽が撫でていく。まもなく夕闇が訪れようとしていた。
窓から臨む港の水面は、いつもより濁って見える。
俺は屋敷に戻らず会社に出て、表面上は淡々と仕事をこなした。
けれど会合に出ても、大口の取引の報告を部下から受けても、一人で執務室にいたとしても、自分が空虚な目をしているのに気づいていた。
一晩のうちに世界が暗闇に落ちたような気分だった。
頭の中で、あのときの莉珠の姿が何度も浮かんでは消える。
血がにじむ手足を抱えて、震えていた。無理に引き寄せたなら、壊れてしまいそうだった。
眠っていない様子の俺に、父は屋敷に戻るよう言ったが、首を横に振った。今は莉珠のいない屋敷に戻りたくなかった。
簾に無理やり指定した面会時間が来るのを、夜明けを願う心地で待っていた。
午後四時、俺は再び清陀記念病院へ向かった。
裏口のガラス扉に映る自分の顔は、何の表情もなかった。
俺の名を伝えると、守衛は内線で連絡を取った。ほどなくして、簾が現れる。
グレーのスーツ姿は変わらず、疲労の影もなく背筋は伸びていた。
ただその目の奥には、昨日よりも深い陰りが宿っていた。
「……今は距離を置いてほしいと言ったはずだ」
「悪魔の腹の内に妹を置いたままにできると思うか」
俺がにらむように見ると、簾はかすかに眉を上げた。
「自分の母親でもある人を、悪魔と?」
「あの人は以前も莉珠を傷つけた。とっくに情は切れてる」
俺は冷えた声音で断言すると、刃を向けるように続ける。
「一日、待った。……莉珠を返せ。俺が看病する」
簾は俺と同じ目線から、突き放すように返す。
「できない。医師の元で治療の必要がある。それ以上強行に主張するなら、措置入院の判断を下す」
医師の権力を使って家族から引き離す手段を見せた簾に、俺は目を険しくした。
母と簾が一枚岩だとまでは思っていない。簾が莉珠に触れた手には優しさがにじんでいた。治療というのも、本当に莉珠の回復のためかもしれない。
……だが、莉珠の兄は俺だ。そちらがそう出るのならと、俺は考えを変える。
「何をすればいい」
俺には名家たる宝坂の男の矜持がある。普段は下手に出る必要などない。
「頭を下げろというなら、下げる。……頼む、少しでもいい。莉珠に会わせてくれ」
けれど莉珠のためなら別だった。俺の自尊心など、莉珠を無事に連れ帰るためならいくらでも踏みつぶしてみせる。
「君は……」
驚いた様子の簾に、俺はまっすぐに見返して言葉を続ける。
「俺が苦しむのは構わない。だが今は莉珠が苦しんでる。うちで一番小さくて、弱いあの子を守れないなら、俺は家族じゃない」
簾はしばらく黙っていた。その沈黙の中で、冷たい蛍光灯の音がやけに響く。
やがて、彼は小さくため息をついた。
「……五分だけだ」
俺はうなずいて、逸る気持ちを抑えながら簾の後に続いた。
昨日と同じ特別病棟のフロアへ上がる。
廊下の窓から見える景色は曇りに沈んでいた。重い雲が海を覆い、光がどこにも落ちていない。
病室のドアを開けると、静寂が押し寄せた。
白いカーテンは閉め切ったままで、空気清浄機が音を立てていた。
ベッドの上、莉珠は薄いブランケットに包まれていた。
自傷行為を抑えるためなのだろう。昨日とは違って、手首に拘束具がついていた。
体を小さく丸めて、咳をしていた。
簾が一歩後ろに下がり、俺に視線で合図を送る。
「刺激を与えないように。呼びかけるときも、そっと」
「わかってる」
俺はベッドのそばに立ち、そっと息を整えた。
莉珠の顔色は青く、唇が乾いている。少しの間離れていただけなのに、痩せたような気がした。
その横顔に、幼い日の面影が重なる。
莉珠が庭で転んで、俺が慌てて駆け寄ったときのことだった。痛くないかと問いかけた俺に、俺の袖を握って「……だいじょうぶ」と一生懸命痛みをこらえて言ったあの顔。
……莉珠は、とても弱いのに優しい心根の子だ。あのときも、膝に傷を作っていたのに、俺が心配するからと泣かなかった。今も誰かに縋ることもせず、ただ自分を傷つけてがまんしている。
「莉珠」
俺はできる限り優しくその名を呼んだ。
声は少し震えた。祈るような声色だった。
それでも莉珠には怖かったらしい。焦点の合わない目をさまよわせて、怯えたように枕に頬をすり寄せた。
一瞬だけ、彼女の唇が動いた。
「……消え、たい」
暗闇の中で一人立ちすくんだような声だった。
今、心の世界で彼女は一人なのだと見せつけられた。
俺は手を伸ばしかけて、途中で止めた。
そんな寂しい世界、今すぐ壊してやりたい。……でもその結果、彼女の心までばらばらになってしまったら?
俺は触れる代わりに、そっとベッドの端に腰を下ろした。
手を握ることもできず、ただ近くに座る。
「ここにいるよ。……ひとりにしない。おまえの側にいる」
莉珠が、それを兄の言葉だと理解できたかはわからない。ただ今度は、莉珠は怯えることなく黙って聞いていた。
莉珠は咳をして、静かにまぶたを閉じる。胸が上下して、眠りに入ったようだった。
五分が経ったころ、簾が小さく首を振った。
俺は立ち上がり、振り返りながら病室を出る。
廊下に出た瞬間、置いていくのが惜しくてならなかった。
簾が後ろから言う。
「……彼女、ずっと眠れていなかったんだ」
「そうか」
「ありがとう」
俺は簾に背を向けたまま、首を横に振った。
病院を出ると、雨が降り始めていた。
小さな雨粒がアスファルトを打ち、空気を静めていく。
その音を聞きながら、俺は傘も差さずに立ち尽くした。
莉珠を今すぐ連れて帰りたい思いと戦いながら、すべきことを考える。
白い建物を傾いた陽が撫でていく。まもなく夕闇が訪れようとしていた。