宝坂邸の箱庭

16 夜の前の決意

 それからの日々、俺は毎朝、あるいは夜の前に病院へ通った。
 簾に許された時間はいつも短く、ほんの十五分か二十分だった。それでも俺は、そのわずかな時間を切り取るように通い続けた。
 莉珠は光を避けるように、いつもカーテンを開けるのを嫌がった。だから病室の白は、昼の光の手助けがなく青いような色をしていた。
 その淡い青の中で、莉珠はどこにも拠り所がないような目をしていた。目を覚ましているときも、暗闇の中で一人でいるような表情だった。
 莉珠は、初めは俺が部屋に入るだけで怯えた。
 拘束具を引っ張って距離を取ろうとして、俺が手を伸ばすと泣きそうな顔になる。
 けれど日を重ねるうちに、俺の姿を見ても逃げなくなった。
 莉珠が言葉を返してくれることはなかったが、ただ「おはよう」や「またな」という俺の一言に、莉珠が小さくうなずくようになっただけでも、奇跡のように思えた。
 たびたび治療の進捗を訊ねる俺に、簾は慎重に返した。
「回復の途中だ。焦れば、心のひびが深く割れてしまうかもしれない」
 そう言って、簾も毎日莉珠の具合を見ていた。
 拘束具は安全のために手首だけに残され、莉珠は時折、それを見つめて黙り込んでいた。
 俺は、その沈黙が怖かった。
 何を思い、どんな夢の中に囚われているのか、彼女の心の景色は俺の目に映らない。ただ、ガラス越しに見ているような遠さがあった。
 ある午後、簾が俺に告げた。
「今日は、少し拘束具を外してみよう」
 俺はそれを聞いて眉をひそめた。
「危険じゃないのか」
「彼女の意思を確かめたい。……担当の医師は、もう自分を傷つける衝動は薄れているように見えると言っていた」
 俺はただその言葉を信じたかったのかもしれない。だから違和感を置いてきぼりにして、簾に同意してしまった。
 俺はその日も病室の外で見守るように立っていた。
 薄い壁の向こうで、簾が莉珠に話しかけている。
 淡い声が漏れ聞こえ、次に、カチャリと金属音がした。拘束具が外されたのだろう。
 その瞬間、俺の胸の奥に冷たい不安が走った。
 まるで何かを予感するような痛みだった。
 簾は部屋を出て、俺と廊下で話をした。しばらくして、看護師が様子を見るために部屋に入って行った。
 ――その直後、鋭いナースコールが響いた。
 我に返って俺が駆け込むと、部屋の中は硝子の破片と血の匂いで満ちていた。
 倒れた花瓶の縁で、莉珠が首のあたりを切っていた。
 床には赤い水滴がこぼれ、ブランケットがしっとりと濡れている。
「莉珠!」
 俺が抱き起こすと、彼女は迷子の子どものような声音で言った。
「きたないの、でない……」
 莉珠は途方に暮れたように、血の泡をさする。
「でないの……?」
 その声は、氷のように脆かった。
「莉珠、なんで……! だめだ、こんなのはだめだ……!」
 俺は必死で圧迫しながら、彼女の体を支える。
 莉珠の瞳は焦点を結ばず、どこか遠くを見ていた。
 簾が駆け込み、看護師が包帯を運び込んできた。
「すぐに処置を――!」
 俺の手が血で染まっていく。
 血の温度が冷たいのか、焼けるように熱いのかもわからない。
 俺の心臓の鼓動は爆発するようで、息ができている実感もなかった。
 簾が手早く処置を終えると、莉珠はやがて静かな呼吸に戻った。
 小さな傷口を白い包帯で覆い、医療用テープで留める。
「傷は浅い。……でも、精神の回復は、まだ遠い」
 簾の言葉に、俺は唇を噛んだ。
 医師が呼ばれてきて安定剤を打つと、莉珠はまぶたを閉じた。
 その眠りが安らぎではなく、ただの薬の作用だとは俺もわかっていた。
「汚いのが出ない……と言っていた」
 俺が呆然とした口調でつぶやくと、簾は包帯を整えながらうなずく。
「「汚れ」という言葉が、彼女の心に深く刻まれている。……刷り込まれているのだろう」
「誰に……いや」
 俺は言いかけて、震えた。
「……あの女が、莉珠を殺そうとしてるのか」
 その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で音もなく何かが砕けた。
 俺は莉珠の側に戻ると、包帯の上から彼女の手を覆った。
 温度のない指先が、わずかに俺の手を握り返す。
 そのかすかな反応に、心を決めた。
 俺は莉珠の額にそっと触れて、乱れた髪を整える。
「莉珠、おまえはいつだっていい子だ。……いい子だから、ちょっとだけ待てるな? 今からおまえを苦しめるものを、取り除きに行くから」
 窓の外で雨がやみ、海の方から光が差し込んできた。
 ただその光が差す先には、深い夜が口を開けて待っていた。
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