宝坂邸の箱庭
17 父と子の系譜
屋敷に戻ると、廊下の明かりがやけに白く感じる。
莉珠の病室から帰った後、いつもそうだった。光を最小限にしている病室は、莉珠の心の灯りも今にも消え失せそうで哀しかった。
けれど悲しんでいる時間はもう無いと自分を奮い立たせた。早く莉珠をこの屋敷で、温かい光に包んでやりたい。そう願って屋敷の奥を見た俺の前に、使用人が現れた。
「旦那様が応接室でお待ちです」
父の代から仕えている使用人は短く告げると、俺から上着を受け取った。
俺も帰ったらすぐに父と話をするつもりだった。父とは時に言葉を交わす前から意思が通じるところがある。親子なのだなと、実感する瞬間だった。
俺が応接室に入ると、父は分厚い書類を机に置いたところだった。
ちらりと目を走らせると、書類の中に清陀の名がちらついた。
「清陀の宗家、千陀家とコンタクトが取れた」
俺が座る前に、父が言った。
俺は父の正面のソファーに掛けて、低く問いかけた。
「交渉できそうな相手ですか」
「千陀の当主――千陀凌紀とは何度か会ったことがある。有能で、家業も大いに拡大させた。……だが、人間的には破滅的な男だ」
父は瞳に重い影を落として言葉を続ける。
「事実上の妻に「治療」を施して、その心を壊した。女を所有物のように扱う男だ。家族を傷つける男は、信用ならない」
普段感情の色を見せない父だが、家族に対しては別だ。父は吐き捨てるように告げて、言葉を切った。
「なら、交渉相手を変えますか」
「凌紀の息子――千陀藍紀がいる。若頭として実務を担っている男だ。奴は父よりも柔らかい物腰をしている。洒落者で、誰にでも笑顔を向ける。だが、本性は残酷だ。人の心を観察することを、愉しみだと思っている節がある」
父は書類の一枚を折り畳み、俺の方へ押し出した。
写真付きの経歴書に、端正な顔立ちの男が映っていた。
無駄のない姿勢、切れ長の瞳、そして底の見えない微笑みが冷たい印象を持たせる。
「千陀藍紀……」
俺は写真を見つめてから、父を見返した。
「交渉は俺が行きます」
「理由を訊こうか」
父の問いに、俺は写真に目を落として言う。
「相手が若頭なら、こちらも若頭が出るのが筋だ」
「……そう来ると思っていた」
父はうっすらと笑って、椅子の背にもたれた。
「いいだろう。だが、奴の笑顔に油断するな。人の弱点を見抜く目を持っている。おまえの弱点が莉珠だと知れば、それを利用してくるだろう」
「上等だ」
俺は不遜な笑みを浮かべて、写真を指先で弾いた。
その動作を見て、父は短く息を吐く。
「交渉の名目は、「清陀家の医療研究に関する懸念」。その中で莉珠の話を持っていけ。ただ、藍紀は既に保奈美の行為を把握している可能性もある。……探れ」
「わかりました」
「それと――」
父も資料を手で押しやって言う。
「莉珠を救うためなら、どんな手も使っていい。だが、血を見るな」
「それは約束できない」
「……それも、おまえなら言うと思っていた」
ふと父の瞳に微かな憂いが浮かんだ。
「惣一。おまえは私に似てきたな」
「光栄です」
「似てほしくないところばかり似る。……できるなら、普通の、おだやかな家庭を共有できる相手を好きになってほしかった」
俺は苦笑して、ぽつりと返す。
「すみません。ずっと昔から……決めていたことですから」
それきり、俺と父は黙って窓の外を見た。
遠くの海に雲が垂れ、風が潮の匂いを運んできていた。
三日後、俺は千陀家の屋敷を訪れた。
城のような石造りの門をくぐると、広大な庭園が広がっている。
冬だというのに薔薇を始めとした彩り豊かな花々が咲き誇り、遠くで噴水が音を立てている。
まるで、外界を遮断するための楽園――あるいは牢獄のようだった。
使用人が恭しく頭を下げ、客間へ案内する。
廊下の壁には、すべて抽象画が掛けられていた。
色彩は鮮やかなのに、どれもどこか不安を煽る。
この家の空気には、人の心を試すような静けさがあった。
使用人は正面をまっすぐに進み、やがて両開きの扉をノックする。
開かれた先に立っていた男は、中性的な面立ちに雅な微笑みを浮かべた。
すらりとした細身の体に、淡い藤色のネクタイを結び、白いシャツの袖口に金ボタンがあしらわれている。
伊達者の噂はその通りで、その動作ひとつひとつが端正だった。
「千陀藍紀です。……初めまして、我が家にようこそ」
先に俺にかけた声は、柔らかい響きだった。
「ご相談が、おありのようですね?」
けれどその瞳は綺麗に細められて、まるで俺がこの屋敷に足を踏み入れた本当の目的を見透かしたようだった。
莉珠の病室から帰った後、いつもそうだった。光を最小限にしている病室は、莉珠の心の灯りも今にも消え失せそうで哀しかった。
けれど悲しんでいる時間はもう無いと自分を奮い立たせた。早く莉珠をこの屋敷で、温かい光に包んでやりたい。そう願って屋敷の奥を見た俺の前に、使用人が現れた。
「旦那様が応接室でお待ちです」
父の代から仕えている使用人は短く告げると、俺から上着を受け取った。
俺も帰ったらすぐに父と話をするつもりだった。父とは時に言葉を交わす前から意思が通じるところがある。親子なのだなと、実感する瞬間だった。
俺が応接室に入ると、父は分厚い書類を机に置いたところだった。
ちらりと目を走らせると、書類の中に清陀の名がちらついた。
「清陀の宗家、千陀家とコンタクトが取れた」
俺が座る前に、父が言った。
俺は父の正面のソファーに掛けて、低く問いかけた。
「交渉できそうな相手ですか」
「千陀の当主――千陀凌紀とは何度か会ったことがある。有能で、家業も大いに拡大させた。……だが、人間的には破滅的な男だ」
父は瞳に重い影を落として言葉を続ける。
「事実上の妻に「治療」を施して、その心を壊した。女を所有物のように扱う男だ。家族を傷つける男は、信用ならない」
普段感情の色を見せない父だが、家族に対しては別だ。父は吐き捨てるように告げて、言葉を切った。
「なら、交渉相手を変えますか」
「凌紀の息子――千陀藍紀がいる。若頭として実務を担っている男だ。奴は父よりも柔らかい物腰をしている。洒落者で、誰にでも笑顔を向ける。だが、本性は残酷だ。人の心を観察することを、愉しみだと思っている節がある」
父は書類の一枚を折り畳み、俺の方へ押し出した。
写真付きの経歴書に、端正な顔立ちの男が映っていた。
無駄のない姿勢、切れ長の瞳、そして底の見えない微笑みが冷たい印象を持たせる。
「千陀藍紀……」
俺は写真を見つめてから、父を見返した。
「交渉は俺が行きます」
「理由を訊こうか」
父の問いに、俺は写真に目を落として言う。
「相手が若頭なら、こちらも若頭が出るのが筋だ」
「……そう来ると思っていた」
父はうっすらと笑って、椅子の背にもたれた。
「いいだろう。だが、奴の笑顔に油断するな。人の弱点を見抜く目を持っている。おまえの弱点が莉珠だと知れば、それを利用してくるだろう」
「上等だ」
俺は不遜な笑みを浮かべて、写真を指先で弾いた。
その動作を見て、父は短く息を吐く。
「交渉の名目は、「清陀家の医療研究に関する懸念」。その中で莉珠の話を持っていけ。ただ、藍紀は既に保奈美の行為を把握している可能性もある。……探れ」
「わかりました」
「それと――」
父も資料を手で押しやって言う。
「莉珠を救うためなら、どんな手も使っていい。だが、血を見るな」
「それは約束できない」
「……それも、おまえなら言うと思っていた」
ふと父の瞳に微かな憂いが浮かんだ。
「惣一。おまえは私に似てきたな」
「光栄です」
「似てほしくないところばかり似る。……できるなら、普通の、おだやかな家庭を共有できる相手を好きになってほしかった」
俺は苦笑して、ぽつりと返す。
「すみません。ずっと昔から……決めていたことですから」
それきり、俺と父は黙って窓の外を見た。
遠くの海に雲が垂れ、風が潮の匂いを運んできていた。
三日後、俺は千陀家の屋敷を訪れた。
城のような石造りの門をくぐると、広大な庭園が広がっている。
冬だというのに薔薇を始めとした彩り豊かな花々が咲き誇り、遠くで噴水が音を立てている。
まるで、外界を遮断するための楽園――あるいは牢獄のようだった。
使用人が恭しく頭を下げ、客間へ案内する。
廊下の壁には、すべて抽象画が掛けられていた。
色彩は鮮やかなのに、どれもどこか不安を煽る。
この家の空気には、人の心を試すような静けさがあった。
使用人は正面をまっすぐに進み、やがて両開きの扉をノックする。
開かれた先に立っていた男は、中性的な面立ちに雅な微笑みを浮かべた。
すらりとした細身の体に、淡い藤色のネクタイを結び、白いシャツの袖口に金ボタンがあしらわれている。
伊達者の噂はその通りで、その動作ひとつひとつが端正だった。
「千陀藍紀です。……初めまして、我が家にようこそ」
先に俺にかけた声は、柔らかい響きだった。
「ご相談が、おありのようですね?」
けれどその瞳は綺麗に細められて、まるで俺がこの屋敷に足を踏み入れた本当の目的を見透かしたようだった。