宝坂邸の箱庭
18 情と対価
金の装飾が施された応接間は、どこもかしこも整然としていた。
わずかな空調の音さえ、計算された呼吸のように静かに響く。
向かいのソファーに座る千陀藍紀は、ごく自然な姿勢でカップを傾けていた。
淡い藤色のネクタイが光を受けて柔らかく輝き、手に光るサファイアの指輪も彼の中世的な容姿に彩りを添えていた。
「宝坂家の惣一様ですね。ようこそお越しくださいました」
その声は高すぎず低すぎず、滑らかで、丁寧に切り出された。
「いつも医薬品の面でお世話になっています。千陀一族の病院経営は、宝坂家の安定した供給なくしては成り立ちません。特に貴社の鎮静薬、あれは患者の心をなだめる上で実に優秀です」
「過分なお言葉です」
礼儀を崩さぬように、俺はわずかに頭を下げた。
藍紀は満足そうに頷くと、柔らかく問いかけた。
「それで、本日はどのようなご用件で?」
その言葉は警戒さえも匂わせない、計算された丁重さだった。
俺は視線を合わせたまま、慎重に言葉を選ぶ。
「……清陀一族が行っている「心の再構築」の医療行為について、懸念があります」
「懸念?」
「清陀の病院で、ある医療行為が行われました。その結果、妹が私のことも認識できず、自分を「汚れ」だと言って傷つけるようになったのです」
妹と俺が口にした瞬間、藍紀はかすかに指先を動かした。
だが、藍紀はすぐに表情を変えなかった。
紅茶の表面に視線を落とし、ひと呼吸置いてから、ふと痛ましそうに目を細めた。
「……それは、気の毒に」
彼の声は、想像していたよりもずっと人間的だった。
社交辞令でも感傷でもなく、本当に心の底から同情しているように見えた。
あれほど滑らかに話していた言葉をやめて、藍紀は沈黙する。
「どうかされましたか」
俺が問うと、藍紀は我に返ったように微笑んだ。
「いえ……私にも、まだ小さな妹がいるのです」
その言葉には、わずかに熱がこもっていた。
「もし、あの子を傷つけられたら――私はあらゆる報復を考えたでしょうね」
柔らかく語られるその声に、凍てついた響きがあった。
彼の瞳は濡れたような美しい黒色をしていたが、その奥に暗い深淵のような影が見えた。
――この男の情は、どこか狂気的な色を帯びている。
そう気づいた瞬間、背筋にうっすらと寒気が走る。
藍紀は姿勢を正して、再び微笑みを整えた。
「心情としては、お手を貸して差し上げたいのです。……ただし、私は経営者でもあります。対価なしには動けません」
「無論です」
その言葉を聞いて、俺は迷わず答えた。
「新薬の無償提供を約束しましょう。御家の医療部門で実用化するための臨床データも付けます」
藍紀の目から狂気の色が消えて、冷静な実業家のものに変わる。
「さすが宝坂家。話が早い。誠実で、実に交渉がしやすい」
軽々しさをまとわない程度に喜びを表すのが、実に理想的な経営者の素振りだった。
ただ、今は千陀に取り入ることが目的ではない。俺は構わず続けた。
「私の願いはただひとつ。――あの子が、これ以上自分を傷つけないようにしてほしい。もし、何か「汚れ」を上書きしなければならないなら……私を使ってくれていい」
藍紀が、思案するように瞬きをした。
「つまり……あなたを「汚れ」として、彼女の心に刻み直す、という意味ですか」
「はい」
「それでは彼女は、兄であるあなたから離れていきますよ」
その警告にも、俺は迷いなく答えた。
「構わない。……あの子が元通り笑ってくれるなら、それが私に向けた笑顔でなくてもいい」
藍紀は黙って、ゆっくりとカップを置いた。
音も立てない素振りは彼の育ちの良さをにじませていた。
「宝坂家の男は一途だと聞いていましたが……本当に、その通りですね」
独り言のようにそう言うと、彼は手を組みなおした。
「手配しましょう。清陀からあなたの妹をこちらの千陀病院に引き取ります。治療は私の監督下で行う。彼女の心を穏やかにしてみせましょう」
「約束できますか」
「できます。ただし――」
藍紀は穏やかな声のまま、瞳の奥だけを冷たくした。
「人の心を修復するというのは、記憶を整えることです。その過程で、あなたが消えることもあり得る。それでも?」
俺はうなずいて、決意のように告げた。
「……あの子が生きていられるなら、私の存在など消えたって構わない」
そう言うと、藍紀はほんのわずかに、息を吐いて笑った。
「いいでしょう。宝坂惣一様。……取引成立です」
その言葉のあと、藍紀は再び礼を取った。
その笑みはまるで春先の陽射しのように柔らかかったが、俺に敬意を払うように静かに見つめ返していた。
わずかな空調の音さえ、計算された呼吸のように静かに響く。
向かいのソファーに座る千陀藍紀は、ごく自然な姿勢でカップを傾けていた。
淡い藤色のネクタイが光を受けて柔らかく輝き、手に光るサファイアの指輪も彼の中世的な容姿に彩りを添えていた。
「宝坂家の惣一様ですね。ようこそお越しくださいました」
その声は高すぎず低すぎず、滑らかで、丁寧に切り出された。
「いつも医薬品の面でお世話になっています。千陀一族の病院経営は、宝坂家の安定した供給なくしては成り立ちません。特に貴社の鎮静薬、あれは患者の心をなだめる上で実に優秀です」
「過分なお言葉です」
礼儀を崩さぬように、俺はわずかに頭を下げた。
藍紀は満足そうに頷くと、柔らかく問いかけた。
「それで、本日はどのようなご用件で?」
その言葉は警戒さえも匂わせない、計算された丁重さだった。
俺は視線を合わせたまま、慎重に言葉を選ぶ。
「……清陀一族が行っている「心の再構築」の医療行為について、懸念があります」
「懸念?」
「清陀の病院で、ある医療行為が行われました。その結果、妹が私のことも認識できず、自分を「汚れ」だと言って傷つけるようになったのです」
妹と俺が口にした瞬間、藍紀はかすかに指先を動かした。
だが、藍紀はすぐに表情を変えなかった。
紅茶の表面に視線を落とし、ひと呼吸置いてから、ふと痛ましそうに目を細めた。
「……それは、気の毒に」
彼の声は、想像していたよりもずっと人間的だった。
社交辞令でも感傷でもなく、本当に心の底から同情しているように見えた。
あれほど滑らかに話していた言葉をやめて、藍紀は沈黙する。
「どうかされましたか」
俺が問うと、藍紀は我に返ったように微笑んだ。
「いえ……私にも、まだ小さな妹がいるのです」
その言葉には、わずかに熱がこもっていた。
「もし、あの子を傷つけられたら――私はあらゆる報復を考えたでしょうね」
柔らかく語られるその声に、凍てついた響きがあった。
彼の瞳は濡れたような美しい黒色をしていたが、その奥に暗い深淵のような影が見えた。
――この男の情は、どこか狂気的な色を帯びている。
そう気づいた瞬間、背筋にうっすらと寒気が走る。
藍紀は姿勢を正して、再び微笑みを整えた。
「心情としては、お手を貸して差し上げたいのです。……ただし、私は経営者でもあります。対価なしには動けません」
「無論です」
その言葉を聞いて、俺は迷わず答えた。
「新薬の無償提供を約束しましょう。御家の医療部門で実用化するための臨床データも付けます」
藍紀の目から狂気の色が消えて、冷静な実業家のものに変わる。
「さすが宝坂家。話が早い。誠実で、実に交渉がしやすい」
軽々しさをまとわない程度に喜びを表すのが、実に理想的な経営者の素振りだった。
ただ、今は千陀に取り入ることが目的ではない。俺は構わず続けた。
「私の願いはただひとつ。――あの子が、これ以上自分を傷つけないようにしてほしい。もし、何か「汚れ」を上書きしなければならないなら……私を使ってくれていい」
藍紀が、思案するように瞬きをした。
「つまり……あなたを「汚れ」として、彼女の心に刻み直す、という意味ですか」
「はい」
「それでは彼女は、兄であるあなたから離れていきますよ」
その警告にも、俺は迷いなく答えた。
「構わない。……あの子が元通り笑ってくれるなら、それが私に向けた笑顔でなくてもいい」
藍紀は黙って、ゆっくりとカップを置いた。
音も立てない素振りは彼の育ちの良さをにじませていた。
「宝坂家の男は一途だと聞いていましたが……本当に、その通りですね」
独り言のようにそう言うと、彼は手を組みなおした。
「手配しましょう。清陀からあなたの妹をこちらの千陀病院に引き取ります。治療は私の監督下で行う。彼女の心を穏やかにしてみせましょう」
「約束できますか」
「できます。ただし――」
藍紀は穏やかな声のまま、瞳の奥だけを冷たくした。
「人の心を修復するというのは、記憶を整えることです。その過程で、あなたが消えることもあり得る。それでも?」
俺はうなずいて、決意のように告げた。
「……あの子が生きていられるなら、私の存在など消えたって構わない」
そう言うと、藍紀はほんのわずかに、息を吐いて笑った。
「いいでしょう。宝坂惣一様。……取引成立です」
その言葉のあと、藍紀は再び礼を取った。
その笑みはまるで春先の陽射しのように柔らかかったが、俺に敬意を払うように静かに見つめ返していた。