宝坂邸の箱庭
19 夢に似た庭で
長く、もやのかかった夢を見ていた気がする。
霧の向こうで、誰かが何かを言っていた。
でもその声は波の音にまぎれてしまって、夜の中に溶けるように消えてしまった。
目を開けると、窓から柔らかな光が差し込んでいた。
そこは壁も床も白い木で出来ていて、橙色の陽だまりのような照明で満ちていた。
ただベッドとシーツだけは真っ白で、どこか保養所のような、時間の流れがゆるやかな場所だった。
耳をすませば、小鳥のさえずりのような音が聞こえる。
……もっとも、首を巡らせると、それはスピーカーから流れている人工の音だと気づく。
顔を横に向ければ、光をふんだんに取り入れる丸い窓があった。外には庭が見える。
そこには絵のように整えられた花壇があり、赤や白の薔薇が季節を無視して咲き誇っている。
風が吹かないのに、花びらがゆっくりと揺れていた。
身体を起こそうとすると、腕に少し痛みが走った。
手首には薄い絆創膏が貼られていて、下には針の跡がある。
病院……? でも、ここはあまりにも静かすぎる。
そんなとき扉がノックされて、白衣の男性が入ってきた。
若い医師らしいその人は、中性的で端正な顔立ちをしていた。
微笑んで、医師らしくわたしを診る目を向けたけれど、でも不思議に安心を与えてくれた。
「おはようございます。目が覚めましたか」
はじめにかけた声は、柔らかい響きだった。
「私はあなたの処置をした医師、千陀藍紀と申します」
「……処置。ここは病院なのですか」
「療養施設です。あなたは事故で頭を打たれて、しばらく記憶が混乱していました。今はもう落ち着いていますが、しばらく静養することをおすすめします」
事故と聞いたけれど、自分に何が起きたのかその言葉だけではわからなかった。
何か大切なことを、ずっと忘れている気がした。
「わたし、家族が……。きっと心配してると思います」
言葉にしてから、はっとした。
家族の顔が、思い出せない。名前も、声も、頭に蘇ってこなかった。
まるで自分の中から音が消えていくようだった。
喉の奥が詰まり、思わず目を伏せる。
そんなわたしを見て、藍紀先生はゆっくりと椅子を引き、ベッドのそばに腰を下ろした。
わたしにかけた声は、驚くほどやさしかった。
「ご家族は、あなたの記憶の混濁のことを理解されています。無理に思い出そうとするよりも、少しずつ体を休めてください。――皆さん、あなたが一日も早く元気になってくれることを願っておられますよ」
「……そう、ですか」
少し安心したような、でも心が空っぽになるような気がした。
記憶を辿ろうと自分の心をのぞきこんだとき、胸の奥で何かが光った。
暗い嵐のような夢の海の中で、誰かが懸命にわたしの手を握ってくれていた。
いっそ消えたいと願ったわたしのそばで、ずっと離れずにいてくれた人――。
「先生……でも、会いたいんです」
「どなたにですか?」
「ずっと側にいてくれた人です。……名前はわからないけれど」
言葉にした瞬間、胸が強く痛んだ。
その痛みは悲しみではなく、恋しさに似ていた。
藍紀先生は、少し目を細めて私を見た。その視線には、哀れみのようなものがあった。
「それは、あなたのお兄さんでしょうね」
お兄さん――。
その響きを聞いたとき、なぜだか涙が出そうになった。
兄という言葉の中に、暖かい光がある気がした。
「午後にはお会いになれるように、こちらから連絡を取っておきます。今はまだ、ゆっくりお休みください」
そう言って藍紀先生は立ち上がり、扉の前で軽く会釈をして出ていった。
扉が閉まると、部屋は再び静かになった。
窓の外の薔薇が、淡い光に包まれて揺れている。
……午後には会える。その言葉は希望の光のように思った。
私は深い眠気に襲われ、枕に頬を沈めた。
――夢の中で、小さな自分が誰かの背中におぶわれていた。
その背中は広くて、あたたかかった。
わたしがぐずって泣いても、しょうがないなと微笑んで、そっと揺さぶってくれた。
おぶわれたまま、わたしは夢の中でも眠っていた。
安心して、心の奥まであたたかいままで、誰かの名前を呼んだ。
霧の向こうで、誰かが何かを言っていた。
でもその声は波の音にまぎれてしまって、夜の中に溶けるように消えてしまった。
目を開けると、窓から柔らかな光が差し込んでいた。
そこは壁も床も白い木で出来ていて、橙色の陽だまりのような照明で満ちていた。
ただベッドとシーツだけは真っ白で、どこか保養所のような、時間の流れがゆるやかな場所だった。
耳をすませば、小鳥のさえずりのような音が聞こえる。
……もっとも、首を巡らせると、それはスピーカーから流れている人工の音だと気づく。
顔を横に向ければ、光をふんだんに取り入れる丸い窓があった。外には庭が見える。
そこには絵のように整えられた花壇があり、赤や白の薔薇が季節を無視して咲き誇っている。
風が吹かないのに、花びらがゆっくりと揺れていた。
身体を起こそうとすると、腕に少し痛みが走った。
手首には薄い絆創膏が貼られていて、下には針の跡がある。
病院……? でも、ここはあまりにも静かすぎる。
そんなとき扉がノックされて、白衣の男性が入ってきた。
若い医師らしいその人は、中性的で端正な顔立ちをしていた。
微笑んで、医師らしくわたしを診る目を向けたけれど、でも不思議に安心を与えてくれた。
「おはようございます。目が覚めましたか」
はじめにかけた声は、柔らかい響きだった。
「私はあなたの処置をした医師、千陀藍紀と申します」
「……処置。ここは病院なのですか」
「療養施設です。あなたは事故で頭を打たれて、しばらく記憶が混乱していました。今はもう落ち着いていますが、しばらく静養することをおすすめします」
事故と聞いたけれど、自分に何が起きたのかその言葉だけではわからなかった。
何か大切なことを、ずっと忘れている気がした。
「わたし、家族が……。きっと心配してると思います」
言葉にしてから、はっとした。
家族の顔が、思い出せない。名前も、声も、頭に蘇ってこなかった。
まるで自分の中から音が消えていくようだった。
喉の奥が詰まり、思わず目を伏せる。
そんなわたしを見て、藍紀先生はゆっくりと椅子を引き、ベッドのそばに腰を下ろした。
わたしにかけた声は、驚くほどやさしかった。
「ご家族は、あなたの記憶の混濁のことを理解されています。無理に思い出そうとするよりも、少しずつ体を休めてください。――皆さん、あなたが一日も早く元気になってくれることを願っておられますよ」
「……そう、ですか」
少し安心したような、でも心が空っぽになるような気がした。
記憶を辿ろうと自分の心をのぞきこんだとき、胸の奥で何かが光った。
暗い嵐のような夢の海の中で、誰かが懸命にわたしの手を握ってくれていた。
いっそ消えたいと願ったわたしのそばで、ずっと離れずにいてくれた人――。
「先生……でも、会いたいんです」
「どなたにですか?」
「ずっと側にいてくれた人です。……名前はわからないけれど」
言葉にした瞬間、胸が強く痛んだ。
その痛みは悲しみではなく、恋しさに似ていた。
藍紀先生は、少し目を細めて私を見た。その視線には、哀れみのようなものがあった。
「それは、あなたのお兄さんでしょうね」
お兄さん――。
その響きを聞いたとき、なぜだか涙が出そうになった。
兄という言葉の中に、暖かい光がある気がした。
「午後にはお会いになれるように、こちらから連絡を取っておきます。今はまだ、ゆっくりお休みください」
そう言って藍紀先生は立ち上がり、扉の前で軽く会釈をして出ていった。
扉が閉まると、部屋は再び静かになった。
窓の外の薔薇が、淡い光に包まれて揺れている。
……午後には会える。その言葉は希望の光のように思った。
私は深い眠気に襲われ、枕に頬を沈めた。
――夢の中で、小さな自分が誰かの背中におぶわれていた。
その背中は広くて、あたたかかった。
わたしがぐずって泣いても、しょうがないなと微笑んで、そっと揺さぶってくれた。
おぶわれたまま、わたしは夢の中でも眠っていた。
安心して、心の奥まであたたかいままで、誰かの名前を呼んだ。