宝坂邸の箱庭
3 風の残り香
週の初め、空は晴れ渡っていた。
白い雲の端が陽に透けて、塀ごしの景色も明るく見える。
月曜日はちょっと憂鬱だけど、休んでいた分を取り戻したい気持ちの方が大きかった。
伯父にあいさつして家を出るとき、背後から義兄の声がした。
「送っていこうか?」
「大丈夫。今日は天気もいいし」
「……そうか」
ほんの一瞬義兄は何か言いかけて、やめたようだった。
手を振って前を向いたわたしの背中に、義兄の視線が残っていた気がした。
駅から降りていつもの道を折れると、学校まで銀杏並木が続いている。朝の風に葉を鳴らしていた。
その音を聞きながら歩いていると、身体が少し軽く感じた。
小中学校の頃は体調を崩して休みがちだったから、こうして歩いて高校まで通えるのがうれしい。
伯父と義兄にはまだまだ心配をかけているけど、せめて勉強はきちんとして安心させてあげたかった。
ただ病み上がりで体育をしたのがよくなかったようで、昼を過ぎる頃には息切れしてきた。次第にちょっと咳も出てきて、どうしようと口をへの字にする。
体調が悪いときは、義兄は学校が終わる前でも呼ぶようにと言っている。でも熱は出ていないと思うし、咳もそんなにひどいものじゃない。
だからかえって心配をかけたくなくて、義兄には「今日は駅前に寄って来るから迎えは要らない」と連絡を入れた。
帰り道の空は、朝が嘘のように色を落としていた。わたしは空咳をしながら、ハンカチで口元を押さえて歩く。
体調も悪いから、寄り道をするつもりはなかった。だからそこを通ったのは、ただの偶然だった。
駅前の通りに差しかかったとき、見覚えのある黒い車が止まっていた。
それを見て、心臓が小さく跳ねた。
視線を逸らそうとしたけれど、先に声が届いた。
「……この前の」
振り返ると、そこに彼がいた。
黒いジャケット、淡い灰のシャツ。でも今日はあの指輪をしていないからか、あの雨の日のように危うい雰囲気はまとっていなかった。
少し淡い色の瞳が、日差しを受けてやわらかく光っている。わたしにかけた声も、落ち着いた大人の男の人のものだった。
「怪我はなかった? あのとき、ちゃんと確かめないままだったと後悔してたんだ」
「はい、どこも……助けてくださって、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げたものの、今日は咳が収まってくれない。
わたしがこんこんと咳をしていると、彼は目を細めて心配そうに声をかけた。
「その咳、喘息かな」
「わかり、ますか……すみませ、ん。きき、ぐるしくて」
彼は首を横に振ってわたしを覗き込む。
「いいんだ。それよりその年になっても喘息が続くなら、治療方法を改めた方がいいよ。……これ」
ふいに彼がわたしに差し出したのは、シンプルな名刺だった。白地に病院名と理事という役職、それと名前が書いてある。
「清陀、簾さん。お医者さん、ですか?」
わたしが驚いて問いかけると、彼は気負いなく答える。
「俺自身は医師ではないけど、病院関係者ではあるかな。ただ」
簾さんは少しだけ悪い目をして、くすっと笑う。
「……宝坂組の娘さんなら、隠す必要もないか。まあ……いろいろ悪いこともやっている一族だよ」
わたしは「悪いこと」と心の中でつぶやいたものの、それだけで彼から遠ざかる気持ちにはなれなかった。
悪いことはしちゃいけない。そう信じているのに変わりはないけど、それだけで彼から目を逸らす気にはなれなかった。
……恐れの中に、どうしても否定できない憧れがあったから。
わたしはどうにか咳を飲みこむと、まっすぐ彼を見上げて言った。
「助言ありがとうございます。病気にきちんと向き合ってみます。ずっと付き合っていかないといけない体なので」
簾さんはそれを聞くと、困ったような微笑を浮かべた。
「雨の日もそうだったけど、君は誠実で、しっかりした子みたいだね。……意外だ。宝坂組の一家は、冷徹な印象があったから」
わたしは簾さんの言葉に、どう返していいかわからなかった。
冷徹という言葉が、義兄や伯父を悪く言われた気がして、複雑だった。
ただまだわたしには、伯父たちの大人の世界の難しさはわからない。ひとつだけ、わたしが知っていることをつぶやく。
「うちの人たちは、みんな優しいですよ」
「……そうか。なら、いい」
簾さんは余所の家のことだろうに、安堵したように笑った。
そういうところが、優しい人のようにも思えた。
やがて「じゃあ」と声をかけて、彼は車に乗り込む。
その背中を見送るとき、わたしの中は温かい感情が残っていた。
「悪いことは、しちゃいけない」
慌てて自分に言い聞かせるように言って顔をしかめた。
彼がいなくなったあとも、風の中に残った匂いが離れなかった。
緑の香りのような、優しい澄んだ匂いだった。
また少し軽くなった足で、家路を辿る。
……ただその夜、家の玄関の灯りがいつもより早くついていた。
白い雲の端が陽に透けて、塀ごしの景色も明るく見える。
月曜日はちょっと憂鬱だけど、休んでいた分を取り戻したい気持ちの方が大きかった。
伯父にあいさつして家を出るとき、背後から義兄の声がした。
「送っていこうか?」
「大丈夫。今日は天気もいいし」
「……そうか」
ほんの一瞬義兄は何か言いかけて、やめたようだった。
手を振って前を向いたわたしの背中に、義兄の視線が残っていた気がした。
駅から降りていつもの道を折れると、学校まで銀杏並木が続いている。朝の風に葉を鳴らしていた。
その音を聞きながら歩いていると、身体が少し軽く感じた。
小中学校の頃は体調を崩して休みがちだったから、こうして歩いて高校まで通えるのがうれしい。
伯父と義兄にはまだまだ心配をかけているけど、せめて勉強はきちんとして安心させてあげたかった。
ただ病み上がりで体育をしたのがよくなかったようで、昼を過ぎる頃には息切れしてきた。次第にちょっと咳も出てきて、どうしようと口をへの字にする。
体調が悪いときは、義兄は学校が終わる前でも呼ぶようにと言っている。でも熱は出ていないと思うし、咳もそんなにひどいものじゃない。
だからかえって心配をかけたくなくて、義兄には「今日は駅前に寄って来るから迎えは要らない」と連絡を入れた。
帰り道の空は、朝が嘘のように色を落としていた。わたしは空咳をしながら、ハンカチで口元を押さえて歩く。
体調も悪いから、寄り道をするつもりはなかった。だからそこを通ったのは、ただの偶然だった。
駅前の通りに差しかかったとき、見覚えのある黒い車が止まっていた。
それを見て、心臓が小さく跳ねた。
視線を逸らそうとしたけれど、先に声が届いた。
「……この前の」
振り返ると、そこに彼がいた。
黒いジャケット、淡い灰のシャツ。でも今日はあの指輪をしていないからか、あの雨の日のように危うい雰囲気はまとっていなかった。
少し淡い色の瞳が、日差しを受けてやわらかく光っている。わたしにかけた声も、落ち着いた大人の男の人のものだった。
「怪我はなかった? あのとき、ちゃんと確かめないままだったと後悔してたんだ」
「はい、どこも……助けてくださって、ありがとうございました」
丁寧に頭を下げたものの、今日は咳が収まってくれない。
わたしがこんこんと咳をしていると、彼は目を細めて心配そうに声をかけた。
「その咳、喘息かな」
「わかり、ますか……すみませ、ん。きき、ぐるしくて」
彼は首を横に振ってわたしを覗き込む。
「いいんだ。それよりその年になっても喘息が続くなら、治療方法を改めた方がいいよ。……これ」
ふいに彼がわたしに差し出したのは、シンプルな名刺だった。白地に病院名と理事という役職、それと名前が書いてある。
「清陀、簾さん。お医者さん、ですか?」
わたしが驚いて問いかけると、彼は気負いなく答える。
「俺自身は医師ではないけど、病院関係者ではあるかな。ただ」
簾さんは少しだけ悪い目をして、くすっと笑う。
「……宝坂組の娘さんなら、隠す必要もないか。まあ……いろいろ悪いこともやっている一族だよ」
わたしは「悪いこと」と心の中でつぶやいたものの、それだけで彼から遠ざかる気持ちにはなれなかった。
悪いことはしちゃいけない。そう信じているのに変わりはないけど、それだけで彼から目を逸らす気にはなれなかった。
……恐れの中に、どうしても否定できない憧れがあったから。
わたしはどうにか咳を飲みこむと、まっすぐ彼を見上げて言った。
「助言ありがとうございます。病気にきちんと向き合ってみます。ずっと付き合っていかないといけない体なので」
簾さんはそれを聞くと、困ったような微笑を浮かべた。
「雨の日もそうだったけど、君は誠実で、しっかりした子みたいだね。……意外だ。宝坂組の一家は、冷徹な印象があったから」
わたしは簾さんの言葉に、どう返していいかわからなかった。
冷徹という言葉が、義兄や伯父を悪く言われた気がして、複雑だった。
ただまだわたしには、伯父たちの大人の世界の難しさはわからない。ひとつだけ、わたしが知っていることをつぶやく。
「うちの人たちは、みんな優しいですよ」
「……そうか。なら、いい」
簾さんは余所の家のことだろうに、安堵したように笑った。
そういうところが、優しい人のようにも思えた。
やがて「じゃあ」と声をかけて、彼は車に乗り込む。
その背中を見送るとき、わたしの中は温かい感情が残っていた。
「悪いことは、しちゃいけない」
慌てて自分に言い聞かせるように言って顔をしかめた。
彼がいなくなったあとも、風の中に残った匂いが離れなかった。
緑の香りのような、優しい澄んだ匂いだった。
また少し軽くなった足で、家路を辿る。
……ただその夜、家の玄関の灯りがいつもより早くついていた。