宝坂邸の箱庭
24 家族の形
マンションの玄関をくぐった瞬間、胸の奥がひゅっと縮んだ。
久しぶりに一人で外出して、体が疲れたせいかもしれない。
それとも、宝坂の屋敷で感じた懐かしさにも切なさにも似た違和感が、まだ身体に染みていたのかもしれない。
「莉珠? 顔色、悪いな」
わたしがコートを脱ぐより先に、簾さんがわたしの額に手を添えて覗き込んだ。
その手の温かさで緊張が緩むはずなのに、寒さは収まってくれなかった。
「……すみません。なんだか、少し……息が」
そう言いかけたとき、肺の奥が急に重くなる。
空気を吸おうとしてもうまく入ってこない。
胸がきゅうっとねじれるように痛くなって、わたしは思わず壁に手をついた。
激しく咳き込んだわたしに、簾さんはさっと顔色を変える。
「大丈夫だ、こっちへ」
簾さんは患者に慣れているからか、迷いない手つきでわたしの腕を引き寄せた。
ソファに座らせて、クローゼットから吸入薬を取り出す。
わたしが苦しくて首をすくめる間、背中をさすってくれた。
「ゆっくりでいい。よく効く薬だ」
呼吸のリズムを合わせるように、簾さんがささやく。
わたしは吸入器を口に当てて、何度か繰り返すうちに少しずつ胸が楽になっていった。
呼吸が落ち着いた頃には、涙がにじんでいた。
身体が弱ったせいなのか、心までまだら模様みたいに不安定だった。
「……え、く、ごめんなさい。子ども、みたい、で」
「いいんだよ。そんなことは」
簾さんはタオルでわたしの頬についた涙を拭ってくれた。
その仕草はまるで、小さな子どもをあやすみたいだった。
「事故に遭ったばかりなんだ。身体が完全じゃないのも、心が揺れるのも当たり前だよ」
優しい声が胸に沁みて、せっかく涙を拭いてもまたあふれてくる。
わたしは自分が情けないのと、簾さんに甘えたくなる気持ちで、返す言葉に迷っていた。
ふいに簾さんが何気なくたずねる。
「不安なら、また藍紀先生に診てもらおうか? 呼吸器のこともあるし」
瞬間、わたしは勝手に体の芯から震えだしていた。
白い空間、花の匂い、そして誰かの嘲りの声におしつぶされそうになる。
胸の奥に、冷たい手がそっと入り込んでくるような錯覚が蘇った。
「……いや!」
わたしは思わず声を張り上げていた。
自分の叫びに自分が驚くほどで、我に返って謝る。
「……ご、ごめんなさい! ちがう、先生は悪くない……!」
慌てて言い直すわたしを、簾さんはじっと見つめていた。
けれど、笑ったり、責めたりはしなかった。
「怖かったんだね」
短くそう言って、わたしの手を包んだ。
その手はあたたかくて、震えた心が見る間に鎮まっていく。
「病院と、思い出せない事故のこと。蘇って来るようで怖いんだね?」
「……わかりません。ただ……いやで……どうしてか、すごく……」
「うん」
簾さんはわたしの手を離して、代わりに頭をそっと撫でた。
「笑ったりしない。だってまだ、事故から一か月も経ってないんだよ。どこが痛いのかもわからないんだから、触れたくなくて当然だよ」
その声は深い夜のように慈愛に満ちていて、わたしを安心させた。
わたしが落ち着くまで簾さんは頭をなでてくれた。その間、簾さんは何かを考えているようだった。
「……莉珠」
ふいに名前を呼ばれて顔を上げると、簾さんの瞳がいつものやさしさの奥に、別の色を揺らしていた。
「莉珠の不安を、俺に預けてみないか」
「……え?」
「俺と……付き合ってみる?」
その言葉に、息が止まった。
瞬間的に思い出したのは、従兄の惣一さんのことだった。
一緒に過ごした記憶はどこにもみつからないけれど、彼を思うと怖いような、懐かしいような感情が浮かぶ。
……大事な話のときに、どうして縁も薄い親戚のことを考えているのだろう。自分がわからなくて、こくんと息を呑む。
簾さんの言葉を心で反すうする。わたしの胸が急に熱を帯びて、心臓が忙しなく脈を打った。
「……わたしたち、家族、です」
やっとのことでそう言ったわたしに、簾さんは微笑む。
「いつか、本当の家族にならない?」
簾さんはわたしの混乱を責めずに、ただ率直に言った。
「莉珠の心の荷物、俺が持ちたい。莉珠が心の痛むところに手を触れたくないなら、俺が少しでも軽くできたらって思ってる」
その言葉は甘くてやさしくて……そしてどこか、心の柔らかい場所に触れてくるようだった。
簾さんの手はどこまでも優しくて……ほんの少し、冷たい。そう思ったとき、簾さんが言った。
「考えておいて」
最後にもう一度わたしの頭を撫でると、簾さんは立ち上がり、静かに部屋を出て行った。
扉が閉じられる音がして、部屋にひとりになる。
静けさの中で、胸がじんわりと熱くなっていた。
……家族、だもの。
でも、そういう家族の形も、あるのかな。
あの人の手が離れたあと、心の奥に残った余韻が、息をするたびに広がっていく。
窓の外では冬の風がざわめいていた。
わたしの心の雪景色に、ゆっくりと色が差してくるようだった。
久しぶりに一人で外出して、体が疲れたせいかもしれない。
それとも、宝坂の屋敷で感じた懐かしさにも切なさにも似た違和感が、まだ身体に染みていたのかもしれない。
「莉珠? 顔色、悪いな」
わたしがコートを脱ぐより先に、簾さんがわたしの額に手を添えて覗き込んだ。
その手の温かさで緊張が緩むはずなのに、寒さは収まってくれなかった。
「……すみません。なんだか、少し……息が」
そう言いかけたとき、肺の奥が急に重くなる。
空気を吸おうとしてもうまく入ってこない。
胸がきゅうっとねじれるように痛くなって、わたしは思わず壁に手をついた。
激しく咳き込んだわたしに、簾さんはさっと顔色を変える。
「大丈夫だ、こっちへ」
簾さんは患者に慣れているからか、迷いない手つきでわたしの腕を引き寄せた。
ソファに座らせて、クローゼットから吸入薬を取り出す。
わたしが苦しくて首をすくめる間、背中をさすってくれた。
「ゆっくりでいい。よく効く薬だ」
呼吸のリズムを合わせるように、簾さんがささやく。
わたしは吸入器を口に当てて、何度か繰り返すうちに少しずつ胸が楽になっていった。
呼吸が落ち着いた頃には、涙がにじんでいた。
身体が弱ったせいなのか、心までまだら模様みたいに不安定だった。
「……え、く、ごめんなさい。子ども、みたい、で」
「いいんだよ。そんなことは」
簾さんはタオルでわたしの頬についた涙を拭ってくれた。
その仕草はまるで、小さな子どもをあやすみたいだった。
「事故に遭ったばかりなんだ。身体が完全じゃないのも、心が揺れるのも当たり前だよ」
優しい声が胸に沁みて、せっかく涙を拭いてもまたあふれてくる。
わたしは自分が情けないのと、簾さんに甘えたくなる気持ちで、返す言葉に迷っていた。
ふいに簾さんが何気なくたずねる。
「不安なら、また藍紀先生に診てもらおうか? 呼吸器のこともあるし」
瞬間、わたしは勝手に体の芯から震えだしていた。
白い空間、花の匂い、そして誰かの嘲りの声におしつぶされそうになる。
胸の奥に、冷たい手がそっと入り込んでくるような錯覚が蘇った。
「……いや!」
わたしは思わず声を張り上げていた。
自分の叫びに自分が驚くほどで、我に返って謝る。
「……ご、ごめんなさい! ちがう、先生は悪くない……!」
慌てて言い直すわたしを、簾さんはじっと見つめていた。
けれど、笑ったり、責めたりはしなかった。
「怖かったんだね」
短くそう言って、わたしの手を包んだ。
その手はあたたかくて、震えた心が見る間に鎮まっていく。
「病院と、思い出せない事故のこと。蘇って来るようで怖いんだね?」
「……わかりません。ただ……いやで……どうしてか、すごく……」
「うん」
簾さんはわたしの手を離して、代わりに頭をそっと撫でた。
「笑ったりしない。だってまだ、事故から一か月も経ってないんだよ。どこが痛いのかもわからないんだから、触れたくなくて当然だよ」
その声は深い夜のように慈愛に満ちていて、わたしを安心させた。
わたしが落ち着くまで簾さんは頭をなでてくれた。その間、簾さんは何かを考えているようだった。
「……莉珠」
ふいに名前を呼ばれて顔を上げると、簾さんの瞳がいつものやさしさの奥に、別の色を揺らしていた。
「莉珠の不安を、俺に預けてみないか」
「……え?」
「俺と……付き合ってみる?」
その言葉に、息が止まった。
瞬間的に思い出したのは、従兄の惣一さんのことだった。
一緒に過ごした記憶はどこにもみつからないけれど、彼を思うと怖いような、懐かしいような感情が浮かぶ。
……大事な話のときに、どうして縁も薄い親戚のことを考えているのだろう。自分がわからなくて、こくんと息を呑む。
簾さんの言葉を心で反すうする。わたしの胸が急に熱を帯びて、心臓が忙しなく脈を打った。
「……わたしたち、家族、です」
やっとのことでそう言ったわたしに、簾さんは微笑む。
「いつか、本当の家族にならない?」
簾さんはわたしの混乱を責めずに、ただ率直に言った。
「莉珠の心の荷物、俺が持ちたい。莉珠が心の痛むところに手を触れたくないなら、俺が少しでも軽くできたらって思ってる」
その言葉は甘くてやさしくて……そしてどこか、心の柔らかい場所に触れてくるようだった。
簾さんの手はどこまでも優しくて……ほんの少し、冷たい。そう思ったとき、簾さんが言った。
「考えておいて」
最後にもう一度わたしの頭を撫でると、簾さんは立ち上がり、静かに部屋を出て行った。
扉が閉じられる音がして、部屋にひとりになる。
静けさの中で、胸がじんわりと熱くなっていた。
……家族、だもの。
でも、そういう家族の形も、あるのかな。
あの人の手が離れたあと、心の奥に残った余韻が、息をするたびに広がっていく。
窓の外では冬の風がざわめいていた。
わたしの心の雪景色に、ゆっくりと色が差してくるようだった。