宝坂邸の箱庭

25 いつかのお茶会

 翌朝になっても、胸の重さは消えなかった。
 吸入薬でどうにか呼吸を整えたものの、階段を上るとすぐ息が乱れる。
 大学の二次試験はもうすぐで、どうにか受験したかった。
 病院と聞くと胸がざわりと揺れるけれど、そうも言っていられない。
 昼過ぎ、清陀記念病院を訪ねて呼吸器の先生に診てもらった。
 それなのに、診察室で言われた言葉は耳の奥に冷たく刺さった。
「このままでは二次試験は厳しいでしょう。まずは療養を優先してください」
 わたしはどうにか試験当日だけでもと頼み込んだけれど、体に負担をかけすぎるからと、先生は首を横に振った。
 勉強だけは誰に言われても恥じないほど取り組んできた。夜、簾さんも紅茶を淹れて励ましてくれた。
 それなのに、全部……無駄になってしまうのだろうか。
「……ごめんなさい」
 マンションに帰って来て受診の結果を話したわたしの声は、ひどくかすれていた。
 簾さんは、労わるようにわたしを見下ろして首を横に振る。
「莉珠が悪いわけじゃない。莉珠は一生懸命がんばってきたんだから。先生の言う通り、今は療養を優先した方がいいよ」
「早く……役に立ちたいんです」
 わたしが切望するように言うと、簾さんはなだめるように言う。
「ゆっくりでいいんだよ。……そうだ、気分転換でもしよう? 莉珠を連れて行きたいところがあるんだ」
 簾さんの提案はいつだって優しくて、時々泣きたくなる。
 わたしに淹れてくれる紅茶も、たびたびおみやげに買ってきてくれるお菓子も、ちょっと子ども扱いしていると怒るときはあるけど、むずかゆい思いと共に受け取っていた。
 でもそんな風にゆったりと構えている簾さんの世界に、どうして急いで入ろうとしているのかなと、不思議に思うことはあった。
 ……役に立ちたいという思いは、もっと幼い頃から、降り積もる雪のように心に抱いていた願いのような気がした。



 日曜日、簾さんが連れて行ってくれたのは郊外にある広大な洋館だった。
 門から館までの道さえ白樺の並木道で整えられて、白亜の屋敷を飾るように庭には薔薇が咲いている。
 黒塗りの送迎車が何台も入っては出て行くのを、わたしは驚きと共に見ていた。
「ここは?」
「清陀の宗家……千陀家のティーパーティだよ。千陀家は名家の筆頭なんだ。今日は、藍紀さんの一つ年下の弟さんが主催していると聞いたよ」
 藍紀先生のことを聞くと、恩人のような、でも恐ろしいような、奇妙な感覚を抱く。
 その身にまとう空気が医師というより、わたしの知らない世界の住人のようで、それは実際まちがってはいなかったらしい。
 見上げた館は王者のように重厚な姿をしていて、上流階級の集まる場所を思わせた。
「……わたし、場違いじゃないでしょうか」
「大丈夫。莉珠は落ち着いているから、何も心配してない」
 でも簾さんは微笑んで肩を叩いてくれて、わたしは息を吸うと歩みを進めた。
 会場は、開け放たれた窓から薔薇の庭園が見渡せる広間だった。
 白いテーブルには宝石のようなケーキが並び、女性たちのドレスが熱帯魚のようにひらひらと揺れる。
 藍紀さんの弟さんという男性の、控えめで礼儀正しいあいさつの後、ティーパーティは穏やかに始まった。
 簾さんが心配ないと言ったのは、確かにそうだった。堅苦しい儀礼やあいさつはなく、他愛ない話をして、合間に軽食を取る。客人の人格なのか、わたしのような若輩も温かな目で見守ってくれた。
 ただ……以前もこの屋敷でティーパーティに、参加した気がする。
(いつだっただろう。父親のような人に連れられて、マドレーヌを食べたんだっけ)
 簾さんは父親というには若すぎるし、本当の父親が生きていた頃の幼い日の記憶だろうか。
 そのときは、兄のような人が一緒にいていろんな世話を焼いてくれて……そこまで思ったとき、頭の奥がずきりと痛んだ。
 ティーパーティは始まって一時間ほど経っている。ふと簾さんを見ると、壮年の夫婦と病院経営について話していた。
「少し庭に出てきますね」
 わたしは簾さんにそっと告げて、その場を後にした。



 庭園に出ると、冬の空気が少し澄んでいた。
 その片隅で、見覚えのある小さな女の子がひとり、膝を抱えて遊んでいた。
 帽子をかぶった、ふんわりしたブルーのワンピースを着た女の子――確か、「さっちゃん」と呼ばれていた。
「あ……あのときの、お姉さん」
 彼女はわたしが声をかける前に顔を上げて、複雑そうな顔を見せた。
 その瞳は、小学生とは思えないほど澄んでいて、大人びていた。
「……おだやかに、なりましたか?」
「え……?」
 わたしが問い返すと、彼女は心配そうに続ける。
「お姉さんは、とても痛くて、つらかったんですよね。わたし……忘れたいほど痛い気持ち、なったことないから。……今は、痛いところはないですか?」
 わたしは一瞬、何を答えていいかわからなくなる。
 たぶん彼女は純粋に心配して言ってくれたのだろうけど、わたしはその言葉に考え込んでしまった。
 痛くない、つらくない。そう思うそばから、その意識がからからと崩れてしまう。
――今、莉珠は幸せなんじゃないか。
 惣一さんはそう言ったけど、どうにも自信が持てない。
 ……時々途方もなく大事なものを失くしたように、心が痛くなるから。
 そのとき庭の入り口から、白いコートをまとった影が現れた。
「さっちゃん、ここにいたの」
 藍紀先生は小さな妹のそばにしゃがみこむと、その顔をのぞきこむ。
「手を離して行っちゃったから、どうしたのかと思った。何か嫌なことでもあったのかな?」
 穏やかで柔らかい声、けれどその響きは過保護すぎる色を帯びていた。
 女の子はふるふると首を横に振ると、小さな声で兄に返す。
「……わたし、お兄ちゃんのお仕事の邪魔だから」
「そんなことを言われたんだね」
 藍紀先生の目が鋭くなる。瞳を揺らした女の子に、先生は彼女の頭をそっと撫でて言った。
「さっちゃんを抱っこしたままだって、お兄ちゃんは仕事してみせるよ。……そんなことより、さっちゃんがいなくなったらどうしたらいいかわからない」
 それはとろけるように甘い口調だったけど、遠い昔にわたしも誰かに言われたような気がした。
 莉珠の面倒を見ながらだって、俺は仕事してみせる。それより莉珠の姿が見えなくなる方がよほど怖い……。
 ……それを言った人はとても近しい存在だった気がするのに、今はどこに行ってしまったのだろう?
「ここではお兄ちゃんと手をつないでて。約束できる?」
「……うん。お兄ちゃん、心配かけてごめんなさい」
 こくりと素直にうなずいた妹に笑いかけて、藍紀先生はささやく。
「いい子だね。じきにさっちゃんと二人で暮らせる家を用意するからね。……さ、今日はお兄ちゃんとおやつを食べようか」
 藍紀先生が手を差し出すと、彼女は一度だけわたしを見た。
――痛いところはないですか?
 そんな問いが、もう一度耳の奥に響く。
 やがて彼女は小さくうなずき、藍紀先生の手を取った。
「……莉珠さん」
 藍紀先生がふいに振り返る。
「たびたび目が揺れますね。またいつでも受診にいらしてください」
 微笑んだその目は、わたしの心の脆い場所を見抜いているようだった。
 わたしは何も言えず、ただ小さく息を呑んだ。
 冬の日差しは明るいのに、影だけがじわりと長く伸びているようだった。
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