宝坂邸の箱庭

26 広がる檻

 ティーパーティから帰った夜、玄関をくぐった瞬間に、胸がざわっと波立った。
 広い部屋の空気が薄いような心地がした。歩き慣れたはずのマンションの廊下が遠く感じる。
「莉珠? 無理してない?」
 前かがみになったわたしに、簾さんがそっと肩に触れながら問いかけた。
「……ちょっと疲れただけです。だいじょうぶ。今日はもう、薬を飲んで寝ます……」
 わたしは笑ってそう答えたものの、自分でもよくない気配は感じていた。
 眠る前に、いつもより多く薬を飲んだ。子どもの頃から喘息の薬は飲み続けてきたけど、ここのところの不調は治らなかった。これでどうにか収まってほしいと願いながら、ベッドに入った。
 けれど寝付けずに一時間ほど過ごした後……ふいに胸の奥がつぶれるように痛んだ。
「は……っ」
 苦しくて、意味がないとわかっていながら首の辺りをかきむしる。
 吸っても吸っても、空気が入ってこない。
 喉が狭まり、肺の奥がひんやりと冷えていく。
 息を求めるたびに、鋭い痛みが何度も胸を打った。
 いけないと思って、落ちるようにベッドから抜け出した。のろのろと部屋を出て、簾さんの部屋に向かう。
 ノックをしようとして……息苦しさのまま、床に倒れた。
「莉珠……?」
 意識の向こう側で、簾さんの声がした。
 物音を聞きつけたのか扉を開けて、慌てた様子でわたしの肩を抱えあげる。
「息、できないの? 吸入器は? ……莉珠!」
 視界はもう真っ暗で、返事ができなかった。
 腕も足もどこの力も入らなくて、ぐったりと体を預ける。
「病院に行くぞ。……大丈夫だから、大丈夫だからな」
 その声は震えていたけれど、抱きしめる腕はとても強かった。
 救急車のサイレンが、夜の街を切り裂くように響いた。
 意識が薄れていくなかで、わたしは何度も謝っていた。
「……ごめ、なさ……ごめ……」
「莉珠、謝らなくていい、何も悪くない。俺がいるから」
 簾さんは泣きそうな声で、わたしの手をずっと握っていた。
 そのぬくもりが、苦しさの中で唯一の生命線のように思えた。



 上がっては下がる意識の中、慌ただしく周りを人が行き来していた。
 気づけば人の出入りは静まり、ぽつんと病室の白い天井が見える。
 機械のリズム音と消毒液の匂いに包まれて、わたしはベッドに横たわっていた。
 たぶん清陀記念病院で、どうやらここは個室らしい。
 呼吸は浅く、胸はまだずきずき痛む。ただ、まわりの景色はぼんやりとだけれど淡く見えた。
「……簾、さん」
 名を呼んだ瞬間、カーテンが勢いよく開いて、簾さんが駆け寄った。
「莉珠! 起きた? 苦しくない?」
「少し……大丈夫です。ご迷惑、ばかりで」
「ほら、また謝る。いいから。迷惑なんて思ったことないから」
 簾さんはわたしの手を包み、額の髪をそっとかきあげた。
「苦しくないならいい。な? ゆっくり休みなさい……」
 その言葉は、やさしいのにどこか背筋が震えるような響きを持っていた。



 そこからの意識は、眠ったり起きたり、途切れ途切れだった。
 入院して数日は経ったと思う。けど、わたしの病状はどうやらよくならないらしい。喉の奥がいつも苦しく、たびたび発作に襲われた。
 その間、簾さんは毎日、朝から夜まで病室にいてくれた。
「今日は喉ごしのいいスープを作ってきたよ。飲める?」
「寒くない? 毛布もう一枚持ってくるから」
「大丈夫、大丈夫。俺がいるから、何も怖くない」
 看護師よりも医師よりも、ずっと近くにいて、ずっと手を握ってくれた。
 わたしが眠るまで椅子に座って手を離さず、夜中に目を覚ませばすぐに駆け寄ってくれる。
 弱った心には、その献身が甘く染みこんでいった。
 自分はこのまま死ぬのだろうか。そう思いだすとたまらなく怖くて、簾さん、簾さんと、子どものようにすがってしまった。
「いかないで……。簾さんが……いないと、眠れない」
 夜一人でいることさえできなくて、気づけばそんな言葉を口にしていた。
 でもわたしの子どもじみた甘えを、簾さんは振り払ったりしなかった。
「俺もそばにいたい。莉珠が望むなら、ずっとここにいる」
 簾さんは微笑み、その目は穏やかすぎるほど真剣に見えた。
――わたしは守られている。
 そう思うたびに、体中が安心で埋まっていく。
 でもその安心は不自然なほど大きく大きく広がり、檻のようにわたしを包んでいった。
 外の世界は遠のき、薬の匂いと、簾さんの手の温度だけが現実だった。
「莉珠、俺がそばにいるよ」
 その声が、甘すぎる薬のように、わたしのすべてを曖昧にしていった。
 わたしはこくりとうなずいて涙をにじませる。
 簾さんの手があれば、それでよかった。
 ……それ以外の何かを探すことを、すでにやめていた。
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