宝坂邸の箱庭

27 家族でなければ

 夜の病室は、機械のわずかな電子音だけが呼吸するように響いていた。
 薄いカーテン越しの街灯が、白い壁に淡い影を落としている。
 その光の中で、わたしは胸の中のざらつきを抱えたまま横になっていた。
 発作は収まっているけれど、心はどこか落ち着かない。
「……莉珠、起きてる?」
 ベッドの脇で椅子に腰かけていた簾さんが、小さく声をかけた。
 わたしがうなずくと、彼はやわらかく微笑んで、毛布を整え直してくれる。
「今日は少し食べられてよかった。……苦しくない?」
「だいじょうぶ……です。簾さんがいてくれれば、こわくない」
 言った瞬間、胸にきゅっと痛みが走った。
「でも……わたし、もう元通りには戻らないんでしょうか?」
 簾さんにそんなことを訊いても困らせるだけなのに、わたしは不安のまま口にしていた。
 簾さんの手がわたしの手の甲に触れた。
 それだけで、強張っていた肩がふっとほどけていく。
「治るよ。治療を尽くす。……大丈夫だ」
 きっとわたしは、他でもない簾さんにそう言ってもらいたかったに違いない。
 大丈夫だよと、治るよと、他のどんな医者に言われても信じなかっただろうに、簾さんに言われたから信じてみようと思った。
 わたしは迷った末、ぽつりと問いかける。
「……もし、治らなくても。側に、いてくれますか」
 とても身勝手で残酷なことをたずねたわたしに、簾さんは迷わなかった。
「ああ。……ずっと、言おうと思ってた」
 簾さんは、そっとわたしの頬に手を添えた。
 熱くも冷たくもない、不思議に安心する体温だった。
「俺と……家族より近くなってみない?」
 ゆっくりと言われたその言葉に、息が止まった。
 家族より近くなるという意味を、すぐには理解できなかった。
「結婚」
 でも、簾さんが口にしたシンプルな言葉は、今のわたしにとって救いだった。
「そうしたら莉珠は、安心するだろう? ……莉珠がどんな状態になっても、絶対に離れない。そういう約束になる」
 その言葉は優しさに似た鎖のようだったのに、その鎖に身を預けたいほど、心は弱っていた。
 苦しい夜も、朦朧とした時間も、簾さんはずっとそばにいてくれた。
 冷たい世界でひとりになるのが怖くてたまらなかった。
「……簾さんに悪いです。こんな、何の役にも立たない花嫁」
 わたしは溺れる恐怖から差し伸べられた手にすがるような、そんなひどいことをしようとしているのに。
「それが、欲しいんだ。……承諾で、いい?」
 わたしはこみ上げてくる涙を拭って……こくりとうなずいていた。
「簾さんと、一緒にいたい……」
 簾さんはわずかに目を細め、わたしの額をそっと撫でた。
「ありがとう。莉珠の気持ち、ちゃんと受け取ったよ」
 彼の指が髪を梳きながら、深いところまで入り込むような優しさで触れた。
「これからは俺は、莉珠のもので。……莉珠は、俺のものだからね」
 その言葉に胸がざわつく。苦しいのか、うれしいのかわからない。
「……ずっと守るよ、莉珠。ぜんぶ俺に預けて」
 わたしは小さくうなずいた。
 その瞬間、なにかが静かに閉じる音がした気がした。
 世界が簾さんの輪郭で囲まれていく感覚があった。
 優しい檻の中に至ったのを、安堵の気持ちで受け入れた。



 翌日の夕方、窓の外に雪がひらひらと舞い落ちていた。
 簾さんは、温かいスープをよそいながら唐突に言った。
「莉珠。……体調が戻ったら、婚約しよう」
「……婚約」
 わたしはまだなじみがないその言葉を繰り返す。
 彼は微笑んだまま続ける。
「式は小さくてもいい。人が多いのは苦手だろうし。ふたりで、静かに……誓えればいい」
 簾さんは胸ポケットから小箱を取り出して差し出す。
「笑われるかもしれないけど、結構前から用意していたんだ」
 わたしが震える手でそれを開くと、中には指輪が輝いていた。
 簾さんはふっと笑って、わたしにそれを握らせる。
「静養には邪魔だから、今は枕元にでも置いておいて」
 夢の中だったような約束が現実の形になって、わたしは胸がふるえる。
「わたし……が、簾さんの……」
「俺のためを思うなら、必ず元気になって」
 簾さんはベッドに座り、わたしの手を包み込むように握った。
「俺と一緒に未来をつくっていくこと。……それが何よりのお返しだよ」
 その目は、痛いほどまっすぐで、重かった。
 弱っている心に刺さったその重さは、拒む力を奪っていく。
「……はい」
 その一言が、胸の奥から絞り出された。
 わたしの抱く気持ちが、恋でないことは気づいていた。
 結婚も、本当は怖くて怖くて、どうしたらいいかわからなかった。
 でも、簾さんを引き留めるには、他に方法がなかった。
 簾さんは安心したように息をついて、わたしの指を絡めた。
「うれしい。これで、俺は……莉珠にとってたった一人の男だね」
 簾さんは屈みこんで、わたしの唇に優しくキスをした。
――家族ではなくなってしまった。
 一瞬、心の中に錐が差し込まれたように痛みが走った。
 家族でなければ……こんな風に触れ合って、いいものなんだ。
 そんな思いが、霧のように湧きあがって、ふっと消えていってしまう。
 わたしはただ、簾さんの手の温度にすがるように目を閉じた。
 外では雪が静かに舞い続けていた。
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