宝坂邸の箱庭
28 夜の報せ
夜の帳が海沿いの街を包む頃、宝坂邸の書斎は静まり返っていた。
机の上の書類には手をつけられず、ただ窓際で、冷えた海風の気配を感じながら考えを巡らせていた。
――今、莉珠はどうしているのか。
何度も簾に様子を訊いたが、「治療のためにはそっとしておいてほしい」と断られた。
心の治療も心配だったが、以前少し会ったとき、莉珠は咳をしていた。喘息が悪化していないかも気がかりだった。
幼いときから、片時も側にいてその成長を見守ってきた。学校行事などで一日帰ってこないだけでも、一季節を待つように長く感じた。
それが今、顔を見ることも叶わないまま数週間が過ぎようとしている。
……本当は今すぐ会いに行きたい。でも俺が会うことで莉珠が傷つくなら、決して会わない。
せめて元気でいると知れたなら、この心も少しは鎮まるのに。
胸にまとわりつく不安を振り払うように目を閉じる。
そのとき、机の上の携帯が震えた。
画面に浮かんだ名前を見て、俺は眉を寄せる。
「……千陀藍紀?」
あの男が、こんな夜更けに連絡してくる理由は一つしかない。
通話ボタンを押すと、静かな呼吸音とともに藍紀の落ち着いた声が響いた。
「宝坂様、夜分に申し訳ありません」
「構いません。どうぞ、用件をうかがいます」
俺が問いかけた瞬間、藍紀は言葉を探すように言った。
「――莉珠さんの容態が、急激に悪化しています」
喉の奥がつんと痛んで、空気が一瞬で張りつめた。
「……治療は順調だと聞いていました」
「清陀記念病院は私の管理下です。先日、莉珠さんがそこに救急搬送されました」
俺が息を呑むと、藍紀は慎重に続けた。
「呼吸器の状態が悪い。薬の反応が鈍くなり、過敏な症状が出ている。療養施設で呼吸器も経過観察していましたが、そんな予兆はなかった」
険しい声には、医師である藍紀から見てもそれを異常だと受け取っているのだろう。
胸の奥が、氷のように冷えた。
「あなたの治療の副作用ですか?」
問う声は自分でも驚くほど硬かった。
すると通話の向こうで、藍紀が一瞬だけ沈黙する。
「……疑われても仕方のない立場だとは承知しています」
その声には怒りも焦りもなかった。
「私も後ろ暗い世界で医療を扱う者。残酷な治療も、いくらでも施してきました。……ただ」
何の頑なさもこめず、彼は静かに反論する。
「ですが、一つだけ言わせてください。私が妹を愛していることは、あなたも聞き及んでいらっしゃると思います」
藍紀の言う通り、彼の妹への溺愛は業界ではよく知れたことだった。彼自身がそれを言うまでもなく、そつのない彼には惜しい弱点だと噂されていることも。
「……妹を傷つけるくらいなら、私は自分で喉を切って命を絶ちます」
狂気をまるで優しい愛の言葉のように自然と口にして、藍紀は続ける。
「私の医師としての欠陥です。妹を傷つけるような治療は、絶対に認めることができない。……信じては、もらえませんか」
通話越しなのに、その目が真っ直ぐにこちらを見ている気がした。
妹は傷つけられない。その言葉には――嘘がない。
直感ではなく、論理でもなく、ただ藍紀という男の造形がそう伝えてきていた。
一度俺も目にしたことがある。彼が妹に見せたまなざしだけは、狂おしいほど誠実だったから。
俺は怒りを収めて問いかける。
「……では、あなたは何を疑っているのです」
少しの沈黙があり、そのあと低く苦い声で藍紀が言った。
「何者かが、莉珠さんの薬に手を加えている」
言葉を耳にした瞬間、全身の血が逆流したような心地がした。
「薬……?」
「彼女の喘息薬に、異物が混じっている可能性が高い。症状の出方が、自然ではない」
それには背筋がぞわりと冷えた。
もし、そんなことができる人物がいるとすれば――。
「惣一様」
「……はい」
「申し訳ない。あなたほど彼女の体を理解している者を、そばから離してしまったのは私の落ち度です。だからこそ言います。莉珠さんは今……誰かに弱らされている」
胸の奥で何かがはっきりと壊れた感覚がした。
「すぐに、確認します」
「お願いします。私も出来る限りの力添えはします」
藍紀はそれだけ言い残して通話を切った。
書斎に静寂が戻る。
けれど胸の中では、灼けるような衝撃が渦巻いていた。
――薬に手を加えられている?
――莉珠が弱らされている?
そんなことを、いったい誰が。
答えなんて、考え始めた瞬間からひとつしかなかった。
俺はコートを取ると、迷いなく玄関へ向かった。
今すぐ莉珠のそばに行く。
その覚悟だけが、胸の中で熱を持って燃えていた。
机の上の書類には手をつけられず、ただ窓際で、冷えた海風の気配を感じながら考えを巡らせていた。
――今、莉珠はどうしているのか。
何度も簾に様子を訊いたが、「治療のためにはそっとしておいてほしい」と断られた。
心の治療も心配だったが、以前少し会ったとき、莉珠は咳をしていた。喘息が悪化していないかも気がかりだった。
幼いときから、片時も側にいてその成長を見守ってきた。学校行事などで一日帰ってこないだけでも、一季節を待つように長く感じた。
それが今、顔を見ることも叶わないまま数週間が過ぎようとしている。
……本当は今すぐ会いに行きたい。でも俺が会うことで莉珠が傷つくなら、決して会わない。
せめて元気でいると知れたなら、この心も少しは鎮まるのに。
胸にまとわりつく不安を振り払うように目を閉じる。
そのとき、机の上の携帯が震えた。
画面に浮かんだ名前を見て、俺は眉を寄せる。
「……千陀藍紀?」
あの男が、こんな夜更けに連絡してくる理由は一つしかない。
通話ボタンを押すと、静かな呼吸音とともに藍紀の落ち着いた声が響いた。
「宝坂様、夜分に申し訳ありません」
「構いません。どうぞ、用件をうかがいます」
俺が問いかけた瞬間、藍紀は言葉を探すように言った。
「――莉珠さんの容態が、急激に悪化しています」
喉の奥がつんと痛んで、空気が一瞬で張りつめた。
「……治療は順調だと聞いていました」
「清陀記念病院は私の管理下です。先日、莉珠さんがそこに救急搬送されました」
俺が息を呑むと、藍紀は慎重に続けた。
「呼吸器の状態が悪い。薬の反応が鈍くなり、過敏な症状が出ている。療養施設で呼吸器も経過観察していましたが、そんな予兆はなかった」
険しい声には、医師である藍紀から見てもそれを異常だと受け取っているのだろう。
胸の奥が、氷のように冷えた。
「あなたの治療の副作用ですか?」
問う声は自分でも驚くほど硬かった。
すると通話の向こうで、藍紀が一瞬だけ沈黙する。
「……疑われても仕方のない立場だとは承知しています」
その声には怒りも焦りもなかった。
「私も後ろ暗い世界で医療を扱う者。残酷な治療も、いくらでも施してきました。……ただ」
何の頑なさもこめず、彼は静かに反論する。
「ですが、一つだけ言わせてください。私が妹を愛していることは、あなたも聞き及んでいらっしゃると思います」
藍紀の言う通り、彼の妹への溺愛は業界ではよく知れたことだった。彼自身がそれを言うまでもなく、そつのない彼には惜しい弱点だと噂されていることも。
「……妹を傷つけるくらいなら、私は自分で喉を切って命を絶ちます」
狂気をまるで優しい愛の言葉のように自然と口にして、藍紀は続ける。
「私の医師としての欠陥です。妹を傷つけるような治療は、絶対に認めることができない。……信じては、もらえませんか」
通話越しなのに、その目が真っ直ぐにこちらを見ている気がした。
妹は傷つけられない。その言葉には――嘘がない。
直感ではなく、論理でもなく、ただ藍紀という男の造形がそう伝えてきていた。
一度俺も目にしたことがある。彼が妹に見せたまなざしだけは、狂おしいほど誠実だったから。
俺は怒りを収めて問いかける。
「……では、あなたは何を疑っているのです」
少しの沈黙があり、そのあと低く苦い声で藍紀が言った。
「何者かが、莉珠さんの薬に手を加えている」
言葉を耳にした瞬間、全身の血が逆流したような心地がした。
「薬……?」
「彼女の喘息薬に、異物が混じっている可能性が高い。症状の出方が、自然ではない」
それには背筋がぞわりと冷えた。
もし、そんなことができる人物がいるとすれば――。
「惣一様」
「……はい」
「申し訳ない。あなたほど彼女の体を理解している者を、そばから離してしまったのは私の落ち度です。だからこそ言います。莉珠さんは今……誰かに弱らされている」
胸の奥で何かがはっきりと壊れた感覚がした。
「すぐに、確認します」
「お願いします。私も出来る限りの力添えはします」
藍紀はそれだけ言い残して通話を切った。
書斎に静寂が戻る。
けれど胸の中では、灼けるような衝撃が渦巻いていた。
――薬に手を加えられている?
――莉珠が弱らされている?
そんなことを、いったい誰が。
答えなんて、考え始めた瞬間からひとつしかなかった。
俺はコートを取ると、迷いなく玄関へ向かった。
今すぐ莉珠のそばに行く。
その覚悟だけが、胸の中で熱を持って燃えていた。