宝坂邸の箱庭
29 境界の忠告
清陀記念病院の夜は、昼間の喧噪が嘘のように静かだった。
消毒薬の匂いと、低く唸る空調の音だけが廊下に滞る。
その静けさを裂くように、俺は早足で病棟へ向かっていた。
靴音は抑えたつもりなのに、床に響いて仕方がない。
――薬に異物が混ぜられていた。
藍紀から聞いたその言葉が、何度も頭に蘇る。
……おそらく、簾が家庭内で投薬したのだ。莉珠の信頼につけこんで、何度も。
その許しがたい事実が心の内で燃え続ける。
莉珠の病室の場所は簾によって伏せられている。けれど一つ一つ見てでも辿り着くつもりだった。もう一刻も、薬に異物を混ぜるような男の元に莉珠を置いてはおけなかった。
病棟の明かりが近づくほど、呼吸が荒くなっていく。
怒りで済むなら爆発させている。けれど莉珠を助け出すためには、今は平静さを失ってはいけないと自分に言い聞かせていた。
「宝坂様」
廊下の角に立つ看護師が気づき、深く頭を下げた。
「藍紀先生から連絡を受けています。どうぞ」
そう言って、看護師は先に立って案内を始めた。
彼が裏から手を回していてくれたのをありがたく思った。でなければ、阻む者すべてを排除しようとしていた。
途中、カーテン越しにかすかに聞こえるせき込みが、すべて莉珠のものに思えてしまう。
救急搬送されるほどの病状だという莉珠。話せる状態なのだろうか。……また、笑顔を失っているのだろうか。
たとえ俺のことを覚えていないとしても、ただおまえを助けたいのだと訴えるつもりだった。
病室の前に立ったとき、心臓が強く脈打った。
――中に、あの男がいるかもしれない。
その想像だけで、指先が熱を帯びた。
ドアノブに手をかけようとしたとき、俺に声がかかった。
「……宝坂さん」
背後から名を呼ぶ声がした。
振り返ると、白衣の上に薄手のコートを羽織った藍紀が、静かに歩いてくるところだった。
「先にお伝えしておくべきことがあります」
藍紀はひたと俺を見据えて告げる。
「莉珠さんの病室には、今、簾さんがいます」
その名を聞いただけで、刃物のような感情が軋む。
「簾さんのしたことは、許されるべきではない。一族内で処罰をさせていただきます。……ただ、それでも一族の一人です。あなたの出方によっては、私は彼を庇うかもしれない」
俺は藍紀をにらむように見ながら言う。
「あなたの家の事情は関与しない。俺は莉珠を無事に保護できればいい」
「……莉珠さんの病状は、あなたの想像以上に悪い」
藍紀は慎重に言葉を選びながら返す。
「簾さんは、今夜も長い時間、彼女のそばにいたと報告を受けています。看護師が退室するたびに、彼女の薬や飲み物に触れる機会がありました」
俺は沸騰するような怒りを感じながらつぶやく。
「まだ続いているのか」
「それと……」
藍紀はわずかに目を伏せ、それから顔を上げた。
「口約束ではありますが……莉珠さんは簾さんの求婚に、承諾したそうです」
俺は目を見開いて息を止める。
「莉珠が……?」
「はい。簾さんが過度に依存させた結果なのでしょう」
まだ莉珠は学生だ。そんな子どもを弱らせた挙句、結婚まで約束させてしまうなんて異常だった。
けれどそれ以上に、それほどまでに莉珠が簾に依存しているという事実が、俺の頭をがんと殴ったような心地がした。
「莉珠さんは、あなたを信じず……簾さんを庇うかもしれません」
その言葉は、刃のように鋭く胸に突き刺さった。
それでも俺は深く息を吸って告げた。
「……簾を、止める」
「いいのですか。莉珠さんはあなたを二度と許さないかもしれない」
俺は爆発しそうな思いをこらえながら、無理に苦笑する。
「あなたの妹さんが同じ状況だったら、大人しく帰ったとでも?」
俺の不穏な冗談に、藍紀はふっと暗い笑みを浮かべて言った。
「わかりきったことを訊きました。……これ以上、言う意味はないでしょう」
藍紀の忠告を心に仕舞って、前を見据える。
何年も何年も大切に守ってきたものを奪われたままでいられない。
遠慮深くて緊張の塊だったあの子が家にやって来て、初めて笑顔を見せてくれたときの喜びが胸に蘇る。
……あの子が笑ってくれるなら、俺は悪者になったって構わない。
ドアの前に立ち、拳を握る。
冷たい金属のドアノブに指をかけた瞬間、内側から小さな声が聞こえた。
「……簾さん、そこにいる……?」
その声は、誰よりもそばで聞いてきた莉珠のものだった。
肺が潰れるほどの衝撃が走った。
簾にすがっているからというより、弱らされ、依存させられて仕向けられたその事実に、歯噛みする思いがした。
俺の中で何かが静かに切れる。
怒りの炎ではなく、氷の刃が胸の中に落ちた。
「……千陀さん」
「はい」
「すまない」
たぶん俺は藍紀の忠告を、守れそうにない。
ドアノブをゆっくり回す。軋む金属音が、やけに大きく響いた。
静かに、しかし確かな決意とともに、俺はその扉を開いた。
消毒薬の匂いと、低く唸る空調の音だけが廊下に滞る。
その静けさを裂くように、俺は早足で病棟へ向かっていた。
靴音は抑えたつもりなのに、床に響いて仕方がない。
――薬に異物が混ぜられていた。
藍紀から聞いたその言葉が、何度も頭に蘇る。
……おそらく、簾が家庭内で投薬したのだ。莉珠の信頼につけこんで、何度も。
その許しがたい事実が心の内で燃え続ける。
莉珠の病室の場所は簾によって伏せられている。けれど一つ一つ見てでも辿り着くつもりだった。もう一刻も、薬に異物を混ぜるような男の元に莉珠を置いてはおけなかった。
病棟の明かりが近づくほど、呼吸が荒くなっていく。
怒りで済むなら爆発させている。けれど莉珠を助け出すためには、今は平静さを失ってはいけないと自分に言い聞かせていた。
「宝坂様」
廊下の角に立つ看護師が気づき、深く頭を下げた。
「藍紀先生から連絡を受けています。どうぞ」
そう言って、看護師は先に立って案内を始めた。
彼が裏から手を回していてくれたのをありがたく思った。でなければ、阻む者すべてを排除しようとしていた。
途中、カーテン越しにかすかに聞こえるせき込みが、すべて莉珠のものに思えてしまう。
救急搬送されるほどの病状だという莉珠。話せる状態なのだろうか。……また、笑顔を失っているのだろうか。
たとえ俺のことを覚えていないとしても、ただおまえを助けたいのだと訴えるつもりだった。
病室の前に立ったとき、心臓が強く脈打った。
――中に、あの男がいるかもしれない。
その想像だけで、指先が熱を帯びた。
ドアノブに手をかけようとしたとき、俺に声がかかった。
「……宝坂さん」
背後から名を呼ぶ声がした。
振り返ると、白衣の上に薄手のコートを羽織った藍紀が、静かに歩いてくるところだった。
「先にお伝えしておくべきことがあります」
藍紀はひたと俺を見据えて告げる。
「莉珠さんの病室には、今、簾さんがいます」
その名を聞いただけで、刃物のような感情が軋む。
「簾さんのしたことは、許されるべきではない。一族内で処罰をさせていただきます。……ただ、それでも一族の一人です。あなたの出方によっては、私は彼を庇うかもしれない」
俺は藍紀をにらむように見ながら言う。
「あなたの家の事情は関与しない。俺は莉珠を無事に保護できればいい」
「……莉珠さんの病状は、あなたの想像以上に悪い」
藍紀は慎重に言葉を選びながら返す。
「簾さんは、今夜も長い時間、彼女のそばにいたと報告を受けています。看護師が退室するたびに、彼女の薬や飲み物に触れる機会がありました」
俺は沸騰するような怒りを感じながらつぶやく。
「まだ続いているのか」
「それと……」
藍紀はわずかに目を伏せ、それから顔を上げた。
「口約束ではありますが……莉珠さんは簾さんの求婚に、承諾したそうです」
俺は目を見開いて息を止める。
「莉珠が……?」
「はい。簾さんが過度に依存させた結果なのでしょう」
まだ莉珠は学生だ。そんな子どもを弱らせた挙句、結婚まで約束させてしまうなんて異常だった。
けれどそれ以上に、それほどまでに莉珠が簾に依存しているという事実が、俺の頭をがんと殴ったような心地がした。
「莉珠さんは、あなたを信じず……簾さんを庇うかもしれません」
その言葉は、刃のように鋭く胸に突き刺さった。
それでも俺は深く息を吸って告げた。
「……簾を、止める」
「いいのですか。莉珠さんはあなたを二度と許さないかもしれない」
俺は爆発しそうな思いをこらえながら、無理に苦笑する。
「あなたの妹さんが同じ状況だったら、大人しく帰ったとでも?」
俺の不穏な冗談に、藍紀はふっと暗い笑みを浮かべて言った。
「わかりきったことを訊きました。……これ以上、言う意味はないでしょう」
藍紀の忠告を心に仕舞って、前を見据える。
何年も何年も大切に守ってきたものを奪われたままでいられない。
遠慮深くて緊張の塊だったあの子が家にやって来て、初めて笑顔を見せてくれたときの喜びが胸に蘇る。
……あの子が笑ってくれるなら、俺は悪者になったって構わない。
ドアの前に立ち、拳を握る。
冷たい金属のドアノブに指をかけた瞬間、内側から小さな声が聞こえた。
「……簾さん、そこにいる……?」
その声は、誰よりもそばで聞いてきた莉珠のものだった。
肺が潰れるほどの衝撃が走った。
簾にすがっているからというより、弱らされ、依存させられて仕向けられたその事実に、歯噛みする思いがした。
俺の中で何かが静かに切れる。
怒りの炎ではなく、氷の刃が胸の中に落ちた。
「……千陀さん」
「はい」
「すまない」
たぶん俺は藍紀の忠告を、守れそうにない。
ドアノブをゆっくり回す。軋む金属音が、やけに大きく響いた。
静かに、しかし確かな決意とともに、俺はその扉を開いた。