宝坂邸の箱庭
4 心の柔らかい場所
週の終わり際の放課後、空は少し曇っていた。
朝の青空が嘘のように白くにじみ、風の向きを変えるたびに、空気の湿りが肌にまとわりつく。
足早に駅前を歩いていると、またあの黒塗りの車を見かけた。
組のひとたちが支配を及ぼしている地域を「シマ」というらしいけど、どうやら簾さんのシマはこの辺りらしい。よく注意していると、たびたび車を見かける。
「君の学校はこの辺りみたいだね」
そんなことをわたしが思っていたら、彼からも似たような言葉を投げかけられた。
ずいぶん年上の人だけど、同じようなことを考えるんだ。そう、親近感を抱いて振り向く。
「……簾さん」
わたしがはにかんだ顔をすると、彼もかすかに笑って返す。
「また会ったね。その後咳はどう?」
「ここ数日は収まってます」
「それならよかった」
そのやさしい声音を聞いているうちに、胸の奥が少しだけ緩む。
わたしは学校を休みがちで、登校してもかじりつくみたいに勉強していたから、友だちと言える人がいなかった。病気のことを他人に相談したいとも思っていなかった。
だから心配してもらうということが、こんなにあたたかいものだと知らなかった。簾さんはわたしの心の柔らかいところに、そっと腰を下ろしていた。
そういうのって良くないかなとも思う。でも心地よい気持ちの方が大きかった。
「近いうちに検査に来てみないか? 無理にとは言わない。ただ君くらいの年でちゃんと治療すれば、将来きっと楽になる」
押し付けるような乱暴さが少しもない誘いに、迷ってしまう。
悪い人じゃないのだと思う。でも彼の組を、義兄がよく思っていないのを感じている。
「ありがとうございます。でも、家の人が心配すると思うので……」
「そうだろうね」
言葉を濁すと簾さんは穏やかに言って、少し間を置いた。
「ただ、もし困ったことがあったら名刺の番号にかけて。君はちゃんと助けを呼べる子でいてほしい」
わたしはそれには迷った後に、こくんとうなずいた。
名刺は大切に机の中にしまってある。何度も見たから、番号も覚えている。
やっぱり、あんまりよくないことかな。そう思いながら、簾さんに手を振って別れた。
家に帰ると、義兄の車がすでに門の前にあった。
玄関を開けると、リビングにスーツの上着を脱いだ義兄が座っている。
わたしの顔を見るなり甘い笑顔を浮かべたけど、声音は心配そうだった。
「おかえり。体調は?」
「うん、大丈夫」
「ほんとに?」
義兄は立ち上がって、わたしの頬に手を当てる。
熱があるか確かめる仕草だとわかっていたけど、その手は少し長く留まっているように思った。
「学校から電話があった。保健室で休んだんだって?」
「……少しだけ。平気だよ」
「ならいいけど」
義兄は笑って手を離した。けれどまだわたしの顔色をよく観察しているようだった。
義兄はテーブルの上に置かれた紙袋を指す。
「莉珠、これ開けて」
わたしが袋を手に取ると、中には柔らかいマフラーが入っていた。
淡いグレーの糸で編まれた、手触りが柔らかいカシミヤだった。
「お前、寒がりだから。朝晩冷えるだろ」
「ありがとう。こんな高そうなの」
「いいんだ。……それに」
義兄は、どこかいたずらっぽく微笑む。
「お守りだよ。外は、悪い連中ばかりだからな」
その言葉に胸が小さく跳ねた。
何気ない冗談のようで、何かに気づいているようでもある。
簾さんとたびたび会っていることを思い出して、言葉が詰まった。
でも義兄は直接簾さんのことを口に出さなかった。それに安堵している自分がいた。
その夜、寝る前に机の引き出しを開けた。
白いカードの角が、存在を示すようにかすかに光って見える。
助けを呼べる子でいてほしい。その言葉が、耳の奥に残っていた。
窓の外では、風が柊の葉を揺らしている。
音は優しいのに、どこか不安を呼ぶ響きだった。
わたしは名刺を箱にしまって、そっと机を閉めた。
けれど、胸の中でその数字の並びは、まだ灯りのように消えずに残っていた。
朝の青空が嘘のように白くにじみ、風の向きを変えるたびに、空気の湿りが肌にまとわりつく。
足早に駅前を歩いていると、またあの黒塗りの車を見かけた。
組のひとたちが支配を及ぼしている地域を「シマ」というらしいけど、どうやら簾さんのシマはこの辺りらしい。よく注意していると、たびたび車を見かける。
「君の学校はこの辺りみたいだね」
そんなことをわたしが思っていたら、彼からも似たような言葉を投げかけられた。
ずいぶん年上の人だけど、同じようなことを考えるんだ。そう、親近感を抱いて振り向く。
「……簾さん」
わたしがはにかんだ顔をすると、彼もかすかに笑って返す。
「また会ったね。その後咳はどう?」
「ここ数日は収まってます」
「それならよかった」
そのやさしい声音を聞いているうちに、胸の奥が少しだけ緩む。
わたしは学校を休みがちで、登校してもかじりつくみたいに勉強していたから、友だちと言える人がいなかった。病気のことを他人に相談したいとも思っていなかった。
だから心配してもらうということが、こんなにあたたかいものだと知らなかった。簾さんはわたしの心の柔らかいところに、そっと腰を下ろしていた。
そういうのって良くないかなとも思う。でも心地よい気持ちの方が大きかった。
「近いうちに検査に来てみないか? 無理にとは言わない。ただ君くらいの年でちゃんと治療すれば、将来きっと楽になる」
押し付けるような乱暴さが少しもない誘いに、迷ってしまう。
悪い人じゃないのだと思う。でも彼の組を、義兄がよく思っていないのを感じている。
「ありがとうございます。でも、家の人が心配すると思うので……」
「そうだろうね」
言葉を濁すと簾さんは穏やかに言って、少し間を置いた。
「ただ、もし困ったことがあったら名刺の番号にかけて。君はちゃんと助けを呼べる子でいてほしい」
わたしはそれには迷った後に、こくんとうなずいた。
名刺は大切に机の中にしまってある。何度も見たから、番号も覚えている。
やっぱり、あんまりよくないことかな。そう思いながら、簾さんに手を振って別れた。
家に帰ると、義兄の車がすでに門の前にあった。
玄関を開けると、リビングにスーツの上着を脱いだ義兄が座っている。
わたしの顔を見るなり甘い笑顔を浮かべたけど、声音は心配そうだった。
「おかえり。体調は?」
「うん、大丈夫」
「ほんとに?」
義兄は立ち上がって、わたしの頬に手を当てる。
熱があるか確かめる仕草だとわかっていたけど、その手は少し長く留まっているように思った。
「学校から電話があった。保健室で休んだんだって?」
「……少しだけ。平気だよ」
「ならいいけど」
義兄は笑って手を離した。けれどまだわたしの顔色をよく観察しているようだった。
義兄はテーブルの上に置かれた紙袋を指す。
「莉珠、これ開けて」
わたしが袋を手に取ると、中には柔らかいマフラーが入っていた。
淡いグレーの糸で編まれた、手触りが柔らかいカシミヤだった。
「お前、寒がりだから。朝晩冷えるだろ」
「ありがとう。こんな高そうなの」
「いいんだ。……それに」
義兄は、どこかいたずらっぽく微笑む。
「お守りだよ。外は、悪い連中ばかりだからな」
その言葉に胸が小さく跳ねた。
何気ない冗談のようで、何かに気づいているようでもある。
簾さんとたびたび会っていることを思い出して、言葉が詰まった。
でも義兄は直接簾さんのことを口に出さなかった。それに安堵している自分がいた。
その夜、寝る前に机の引き出しを開けた。
白いカードの角が、存在を示すようにかすかに光って見える。
助けを呼べる子でいてほしい。その言葉が、耳の奥に残っていた。
窓の外では、風が柊の葉を揺らしている。
音は優しいのに、どこか不安を呼ぶ響きだった。
わたしは名刺を箱にしまって、そっと机を閉めた。
けれど、胸の中でその数字の並びは、まだ灯りのように消えずに残っていた。