宝坂邸の箱庭
5 降り積もる時の庭
日曜日の朝は、宝坂邸がいちばん静かになる。
門の外の街道も車通りが少なくて、風が通り抜ける音だけが聞こえた。
廊下を抜けると、庭の木々の枝に霜が降りている。
白くなった土を見ていると、空気まで薄く冷えているようだった。
伯父は朝早くから外出していて、屋敷には義兄とわたしだけだった。
でも壁の上にかけられた大きな掛け軸や、磨かれた床の匂い、そのどこにも乱れが無いのは、屋敷の主人たる伯父の力だ。
決してわたしに声を荒らげることのない伯父だが、伯父が絶対的な主だということはわたしも知っていた。
義兄は早めに起きていて、珍しく台所に立っていた。
薄手のセーターと洗いざらしの白いシャツが肩幅の広い体によく似合っていた。
包丁の音が、静かな朝にぽつぽつと響く。
「おはよう」
声をかけると、義兄は手を止めて振り向いた。
「おはよう。起こす前に起きたな」
「その匂い、好きだから」
「匂い?」
「……そう兄の作る、みそ汁」
わたしが憮然と答えると、義兄は少し照れたように笑って味噌汁の味見をしていた。
そんな仕草はどこか父親のような姿で、でも伯父とは全然違う。
家族なのだけど、近すぎるくらいにずっと側にいた。
食卓には、白い湯気の立つ味噌汁と卵焼きにベーコンが並んでいた。
伯父がいない朝は久しぶりで、少し落ち着かなかった。義兄も苦笑して言う。
「父さんがいないと、食卓が広く感じるな」
「伯父さん、忙しいのに朝はいてくれるよね」
「ああ。小さい頃、莉珠が寂しいって泣いたからな」
義兄の何気ない言葉に、わたしは箸を止める。
彼は静かに味噌汁を飲み干し、優しく目を細めた。
「覚えてないか? そうだな、小さかったからな……」
義兄はよく、わたしのことを小さいと言う。でもそう言うときの義兄の表情は慈しみが浮かんでいて、わたしは怒ることができなかった。
朝食を終えたあと、義兄と一緒に後片付けをした。
宝坂家には古くから使用人一族がいて、伯父たちが掃除や買い物をする必要はない。でも伯父の方針で、共に住むのは家族だけと決めていた。特に休日は、彼ら使用人さえ家に入れなかった。
義兄は庭に下りようと言って、わたしもうなずいた。でもそのままの格好で出ようとしたら、義兄がリビングに掛けていたわたしのマフラーを手に取った。
「ほら、冷えるだろ」
「ちょっとなのに」
むくれたわたしに、義兄はきゅっと強めにマフラーを巻いた。
冬の日差しが細く射していて、庭石の上に光の筋が落ちている。
マフラーに埋もれながら辺りを見回すと、吐く息で世界さえ淡く溶けていきそうに見えた。
ここは静かで、どこよりも守られているところ……そう思ったとき、ちくりと胸が痛んだ。
「……そう兄、あのね」
「ん?」
「伯母さん……いつ帰って来るの?」
わたしが口に出したのは、伯父の妻――つまりわたしを引き取った後、この家にいた女性のことだ。
けれど、その人の姿をわたしはあまり覚えていない。……忘れようとしているのかもしれなかった。
義兄はわたしに振り向いて、安心させるように言う。
「大丈夫だ。もう、来ないよ」
その声は決まったことを口にする響きで、わたしは顔を歪める。
「……それは、伯母さんがわたしを叩いたから?」
わたしがそう言うと、義兄はふっと暗い目をして口をつぐんだ。
わたしは冷えた表情に変わった義兄を見上げながら告げる。
「小さい頃のことだよ。わたしは怪我をしたわけじゃない。……伯父さんの奥さんで、そう兄のお母さんだよ」
伯母に嫌われたのは、わたしがこの家に引き取られてすぐに気づいた。
病気でよく熱を出して、いつも咳をしていて、それで……たぶん一番良くなかったのは、そんなわたしを義兄は実の妹以上に可愛がったことだった。
義兄は夜でも、咳が止まらない私の背をさすって、眠るまで頭を撫でてくれた。
それを戸口で見ていた――伯父の妻の瞳は、冷たいガラスのようだった。
「怪我、か。そうだな。もし莉珠が傷の残るような怪我でもしていたら」
義兄はふいに独り言のように言葉を口にする。
鈍い光を目に宿しながら、どこか遠いところを見てつぶやく。
「……そのときは、あの人は生きていなかったかもしれないな」
胸に錐が差し込まれたような、そんな思いがした。
本気で言ったとは思えない。でも冗談でも怖い言葉だった。
息を呑んだわたしに、義兄はどこか甘く言う。
「莉珠。俺はおかしいか? でもな、おまえは小さくて、弱くて、強がってるとこさえ庇ってやりたくて……他に替えようがないくらいに」
義兄はこれ以上ないくらいに優しい力加減で、ぽんとわたしの頭を叩く。
「……ただ、かわいいんだ。俺にとってはな」
とく、と胸が奇妙な音を立てた気がした。
わたしは頬に当たる風を感じながら、なにも言えなかった。
義兄は庭の柿の木を見上げてぽつりとつぶやいた。
「父さんも子どもに暴力をふるう妻は御免だったんだろう。気にすることはない」
彼の横顔は光を浴びていて、笑っているようにも見えた。
あの日の伯母の姿を、わたしはもうはっきり目の前に描くことができなかった。
昼を過ぎると、義兄は本を読み、わたしは庭を掃いた。
掃くたびに風が落ち葉を舞い上げ、また積もる。
この家の秩序は、わたしが知らないところできれいに整えられてしまった。
……たぶんもう二度と、元に戻ることはない。
夕方、縁側で二人並んでお茶を飲んだ。
義兄はゆっくり湯呑みを置き、少し笑った。
「来週の休みは、外で食べようか」
「珍しいね。休日に外に行くのは」
「たまには外の空気も悪くない」
優しくそう言う彼に、わたしもうなずいた。
絶対の伯父に守られた家で、その日の義兄とわたしも穏やかな休日を送った。
もしかしたら、わたしもいつからか悪いことをしているのかもしれない。
……でもそれを忘れてしまうほど、そこは安息のぬくもりで満ちていた。
門の外の街道も車通りが少なくて、風が通り抜ける音だけが聞こえた。
廊下を抜けると、庭の木々の枝に霜が降りている。
白くなった土を見ていると、空気まで薄く冷えているようだった。
伯父は朝早くから外出していて、屋敷には義兄とわたしだけだった。
でも壁の上にかけられた大きな掛け軸や、磨かれた床の匂い、そのどこにも乱れが無いのは、屋敷の主人たる伯父の力だ。
決してわたしに声を荒らげることのない伯父だが、伯父が絶対的な主だということはわたしも知っていた。
義兄は早めに起きていて、珍しく台所に立っていた。
薄手のセーターと洗いざらしの白いシャツが肩幅の広い体によく似合っていた。
包丁の音が、静かな朝にぽつぽつと響く。
「おはよう」
声をかけると、義兄は手を止めて振り向いた。
「おはよう。起こす前に起きたな」
「その匂い、好きだから」
「匂い?」
「……そう兄の作る、みそ汁」
わたしが憮然と答えると、義兄は少し照れたように笑って味噌汁の味見をしていた。
そんな仕草はどこか父親のような姿で、でも伯父とは全然違う。
家族なのだけど、近すぎるくらいにずっと側にいた。
食卓には、白い湯気の立つ味噌汁と卵焼きにベーコンが並んでいた。
伯父がいない朝は久しぶりで、少し落ち着かなかった。義兄も苦笑して言う。
「父さんがいないと、食卓が広く感じるな」
「伯父さん、忙しいのに朝はいてくれるよね」
「ああ。小さい頃、莉珠が寂しいって泣いたからな」
義兄の何気ない言葉に、わたしは箸を止める。
彼は静かに味噌汁を飲み干し、優しく目を細めた。
「覚えてないか? そうだな、小さかったからな……」
義兄はよく、わたしのことを小さいと言う。でもそう言うときの義兄の表情は慈しみが浮かんでいて、わたしは怒ることができなかった。
朝食を終えたあと、義兄と一緒に後片付けをした。
宝坂家には古くから使用人一族がいて、伯父たちが掃除や買い物をする必要はない。でも伯父の方針で、共に住むのは家族だけと決めていた。特に休日は、彼ら使用人さえ家に入れなかった。
義兄は庭に下りようと言って、わたしもうなずいた。でもそのままの格好で出ようとしたら、義兄がリビングに掛けていたわたしのマフラーを手に取った。
「ほら、冷えるだろ」
「ちょっとなのに」
むくれたわたしに、義兄はきゅっと強めにマフラーを巻いた。
冬の日差しが細く射していて、庭石の上に光の筋が落ちている。
マフラーに埋もれながら辺りを見回すと、吐く息で世界さえ淡く溶けていきそうに見えた。
ここは静かで、どこよりも守られているところ……そう思ったとき、ちくりと胸が痛んだ。
「……そう兄、あのね」
「ん?」
「伯母さん……いつ帰って来るの?」
わたしが口に出したのは、伯父の妻――つまりわたしを引き取った後、この家にいた女性のことだ。
けれど、その人の姿をわたしはあまり覚えていない。……忘れようとしているのかもしれなかった。
義兄はわたしに振り向いて、安心させるように言う。
「大丈夫だ。もう、来ないよ」
その声は決まったことを口にする響きで、わたしは顔を歪める。
「……それは、伯母さんがわたしを叩いたから?」
わたしがそう言うと、義兄はふっと暗い目をして口をつぐんだ。
わたしは冷えた表情に変わった義兄を見上げながら告げる。
「小さい頃のことだよ。わたしは怪我をしたわけじゃない。……伯父さんの奥さんで、そう兄のお母さんだよ」
伯母に嫌われたのは、わたしがこの家に引き取られてすぐに気づいた。
病気でよく熱を出して、いつも咳をしていて、それで……たぶん一番良くなかったのは、そんなわたしを義兄は実の妹以上に可愛がったことだった。
義兄は夜でも、咳が止まらない私の背をさすって、眠るまで頭を撫でてくれた。
それを戸口で見ていた――伯父の妻の瞳は、冷たいガラスのようだった。
「怪我、か。そうだな。もし莉珠が傷の残るような怪我でもしていたら」
義兄はふいに独り言のように言葉を口にする。
鈍い光を目に宿しながら、どこか遠いところを見てつぶやく。
「……そのときは、あの人は生きていなかったかもしれないな」
胸に錐が差し込まれたような、そんな思いがした。
本気で言ったとは思えない。でも冗談でも怖い言葉だった。
息を呑んだわたしに、義兄はどこか甘く言う。
「莉珠。俺はおかしいか? でもな、おまえは小さくて、弱くて、強がってるとこさえ庇ってやりたくて……他に替えようがないくらいに」
義兄はこれ以上ないくらいに優しい力加減で、ぽんとわたしの頭を叩く。
「……ただ、かわいいんだ。俺にとってはな」
とく、と胸が奇妙な音を立てた気がした。
わたしは頬に当たる風を感じながら、なにも言えなかった。
義兄は庭の柿の木を見上げてぽつりとつぶやいた。
「父さんも子どもに暴力をふるう妻は御免だったんだろう。気にすることはない」
彼の横顔は光を浴びていて、笑っているようにも見えた。
あの日の伯母の姿を、わたしはもうはっきり目の前に描くことができなかった。
昼を過ぎると、義兄は本を読み、わたしは庭を掃いた。
掃くたびに風が落ち葉を舞い上げ、また積もる。
この家の秩序は、わたしが知らないところできれいに整えられてしまった。
……たぶんもう二度と、元に戻ることはない。
夕方、縁側で二人並んでお茶を飲んだ。
義兄はゆっくり湯呑みを置き、少し笑った。
「来週の休みは、外で食べようか」
「珍しいね。休日に外に行くのは」
「たまには外の空気も悪くない」
優しくそう言う彼に、わたしもうなずいた。
絶対の伯父に守られた家で、その日の義兄とわたしも穏やかな休日を送った。
もしかしたら、わたしもいつからか悪いことをしているのかもしれない。
……でもそれを忘れてしまうほど、そこは安息のぬくもりで満ちていた。