宝坂邸の箱庭
6 知らない顔
金曜日の午後、わたしは授業の一環で地域活動に参加した。
わたしの通う学校は小中高一貫のカトリック校だから、小学校の頃からたびたび地域活動の授業はあった。
でも今回の授業に緊張したのは、シラバスに覚えのある名前を見かけたからだ。
「清陀記念病院 冬季健康まつり」……というのは、地域の子どもや高齢者を対象にしたイベントらしい。
簾さんが理事を務めるという病院で、わたしはイベントのお手伝いをする。
もちろん授業の一環だから遊ぶわけではないけれど、心は少し浮き立った。
冬の昼下がり、病院の広場には露店や小さなテントが並んでいた。
白衣姿のスタッフが子どもたちに風船を配っていて、奥の方では無料の健康相談の列ができている。わたしたちは制服姿で、パンやスープを配っていた。
偶然というには、わたしは期待してしまっていた。気が付けば簾さんの姿を探していて、それはわたしの思うのとは違う形で叶えられた。
わたしが休憩をもらって、スープの器を手に席を探していたときだった。五、六人の白衣姿の一団の中に、簾さんを見かけた。
その中で一番高齢の男性は、わたしの高校の理事長と話しているところを見たことがあった。彼は病院の理事長で、だから周りの一団も病院の経営陣なのだと察しがついた。
「私たちでは……判断がつかなくて」
「簾さん、どう思われますか?」
漏れ聞こえる声は、簾さんに意見を求めていた。でも簾さんはその一団の中で二回りほども若いのに、彼らは恐れているように丁寧に話しかけていた。
「先生方の世界のことは、私はよくわかりませんから」
簾さんの答えはそっけなく、支配者のような冷たさをまとって座していた。それはわたしが見たことのない表情だった。
「……あ」
でも通り過ぎようとしていたわたしと目が合ったとき、彼は微かに笑った。
途端に気さくで穏やかな雰囲気の、わたしの知る簾さんの顔になる。
簾さんは周りに短く断ると、人波を抜けてわたしに歩み寄った。
「学校帰り?」
「地域活動の授業なんです。炊き出しのお手伝いで」
「ああ、そういえば聖ジョアンナ女学院の子たちが来てると聞いていた」
「簾さんはお仕事ですか?」
わたしは先程の簾さんの様子を思い出して少しためらった。でも簾さんはそんなわたしの感情もさらりと読み取ったようだった。
「まあね。家業とはいえ、俺は夜の街を見回っている方が性に合ってるんだけどな」
わたしに気を遣わせないとでもいうように、簾さんは苦笑して言った。
「簾さんにはあまり夜の印象がありませんけど」
「そうかなぁ。学生の頃は悪いことばかりしてたけど、俺もちょっとは大人になったのかな」
冗談めかして交わす言葉に、簾さんらしい気さくさがにじむ。
「あそこの屋台がおすすめで……」
そう言って、簾さん自ら案内しようとしてくれたときだった。
病院の表の方で怒鳴り声がした。
空気がざらりと変わって、簾さんの表情も同じだった。
正門の方に黒塗りの車が数台止まっているのが見えた。
車のドアが開く音と、硬い靴の音が続く。
のどかなイベントが、一瞬で鋭い緊張の匂いに覆われた。
「清陀! うちへの融資を停止させるってどういうことだ!」
現れた三人の黒服の男たちは、語気荒く挑発的に叫んだ。
簾さんはゆっくりと歩み寄ると、仮面のように冷ややかな目で返す。
「穏やかでないね。弁護士を通じて説明はさせてもらったはずだが」
「うちには親父の代から恩があるはずだ。今更手を切るなど……」
「恩?」
簾さんはふっと鼻で笑うと、ちらと周りを見て言った。
「確かに君の親父さんならこんな真似はしなかっただろうね。子どもたちもいる場で、金の話を持ち出して喧嘩を売るとは」
「おまえ……!」
男たちが近づいてきた。
その動きに反応して、簾さんの後ろからも護衛らしい人が近づく。
黒いコートの裾から、何か金属の光がのぞいた。
「……離れて!」
簾さんの声がした瞬間、わたしは腕を掴まれて後ろに引かれた。
人の波がざわめき、誰かの叫び声が聞こえた。
倒れた机、割れるガラスの音、後は悲鳴。あっという間に広場は混乱に包まれた。
「あ……」
人々が右往左往している中、わたしは怪我をしないように草むらまで逃げて隠れた。
怖いけれど、何かあったときのために義兄が対応方法を教えてくれていた。
動物のように、嵐のときは身を小さくして隠れるのだと。
物陰で見ていたら、簾さんの護衛たちは男たちを難なく伏した。ただ辺り一体に広がった混乱は、なかなか収拾がつかないようだった。
わたしは人に踏まれないように注意しながら、簾さんに駆け寄って言う。
「無事、です……か?」
「俺がそう君に言ってあげたかったな」
簾さんはこんな状況でも冗談めかして笑って、ぽんとわたしの頭を叩く。
「ありがとう。……さすが、並のお嬢さんじゃないな」
褒められたのかはわからないけど、頭に触れた手があたたかった。
……義兄の撫で方とは違う、かすめるような一瞬の接触だった。
直後、サイレンの音が遠くで響きはじめた。わたしはごくりと息を呑んで言う。
「簾さん、警察が……!」
彼は軽く手を挙げて護衛に指示を出し、わたしに目を戻す。
「逃げて。……今度は、俺から会いに行くよ」
わたしは背を押されて、後ろ髪を引かれながら人波にまぎれた。
その日の昼の事件は地域新聞にも載って、実際わたしも思い返すと怖くてたまらなかった。
――会いに行くよ。
でも簾さんが別れ際にそう言ったことを思い出すと、怖さとは違う熱が胸に宿ったのだった。
わたしの通う学校は小中高一貫のカトリック校だから、小学校の頃からたびたび地域活動の授業はあった。
でも今回の授業に緊張したのは、シラバスに覚えのある名前を見かけたからだ。
「清陀記念病院 冬季健康まつり」……というのは、地域の子どもや高齢者を対象にしたイベントらしい。
簾さんが理事を務めるという病院で、わたしはイベントのお手伝いをする。
もちろん授業の一環だから遊ぶわけではないけれど、心は少し浮き立った。
冬の昼下がり、病院の広場には露店や小さなテントが並んでいた。
白衣姿のスタッフが子どもたちに風船を配っていて、奥の方では無料の健康相談の列ができている。わたしたちは制服姿で、パンやスープを配っていた。
偶然というには、わたしは期待してしまっていた。気が付けば簾さんの姿を探していて、それはわたしの思うのとは違う形で叶えられた。
わたしが休憩をもらって、スープの器を手に席を探していたときだった。五、六人の白衣姿の一団の中に、簾さんを見かけた。
その中で一番高齢の男性は、わたしの高校の理事長と話しているところを見たことがあった。彼は病院の理事長で、だから周りの一団も病院の経営陣なのだと察しがついた。
「私たちでは……判断がつかなくて」
「簾さん、どう思われますか?」
漏れ聞こえる声は、簾さんに意見を求めていた。でも簾さんはその一団の中で二回りほども若いのに、彼らは恐れているように丁寧に話しかけていた。
「先生方の世界のことは、私はよくわかりませんから」
簾さんの答えはそっけなく、支配者のような冷たさをまとって座していた。それはわたしが見たことのない表情だった。
「……あ」
でも通り過ぎようとしていたわたしと目が合ったとき、彼は微かに笑った。
途端に気さくで穏やかな雰囲気の、わたしの知る簾さんの顔になる。
簾さんは周りに短く断ると、人波を抜けてわたしに歩み寄った。
「学校帰り?」
「地域活動の授業なんです。炊き出しのお手伝いで」
「ああ、そういえば聖ジョアンナ女学院の子たちが来てると聞いていた」
「簾さんはお仕事ですか?」
わたしは先程の簾さんの様子を思い出して少しためらった。でも簾さんはそんなわたしの感情もさらりと読み取ったようだった。
「まあね。家業とはいえ、俺は夜の街を見回っている方が性に合ってるんだけどな」
わたしに気を遣わせないとでもいうように、簾さんは苦笑して言った。
「簾さんにはあまり夜の印象がありませんけど」
「そうかなぁ。学生の頃は悪いことばかりしてたけど、俺もちょっとは大人になったのかな」
冗談めかして交わす言葉に、簾さんらしい気さくさがにじむ。
「あそこの屋台がおすすめで……」
そう言って、簾さん自ら案内しようとしてくれたときだった。
病院の表の方で怒鳴り声がした。
空気がざらりと変わって、簾さんの表情も同じだった。
正門の方に黒塗りの車が数台止まっているのが見えた。
車のドアが開く音と、硬い靴の音が続く。
のどかなイベントが、一瞬で鋭い緊張の匂いに覆われた。
「清陀! うちへの融資を停止させるってどういうことだ!」
現れた三人の黒服の男たちは、語気荒く挑発的に叫んだ。
簾さんはゆっくりと歩み寄ると、仮面のように冷ややかな目で返す。
「穏やかでないね。弁護士を通じて説明はさせてもらったはずだが」
「うちには親父の代から恩があるはずだ。今更手を切るなど……」
「恩?」
簾さんはふっと鼻で笑うと、ちらと周りを見て言った。
「確かに君の親父さんならこんな真似はしなかっただろうね。子どもたちもいる場で、金の話を持ち出して喧嘩を売るとは」
「おまえ……!」
男たちが近づいてきた。
その動きに反応して、簾さんの後ろからも護衛らしい人が近づく。
黒いコートの裾から、何か金属の光がのぞいた。
「……離れて!」
簾さんの声がした瞬間、わたしは腕を掴まれて後ろに引かれた。
人の波がざわめき、誰かの叫び声が聞こえた。
倒れた机、割れるガラスの音、後は悲鳴。あっという間に広場は混乱に包まれた。
「あ……」
人々が右往左往している中、わたしは怪我をしないように草むらまで逃げて隠れた。
怖いけれど、何かあったときのために義兄が対応方法を教えてくれていた。
動物のように、嵐のときは身を小さくして隠れるのだと。
物陰で見ていたら、簾さんの護衛たちは男たちを難なく伏した。ただ辺り一体に広がった混乱は、なかなか収拾がつかないようだった。
わたしは人に踏まれないように注意しながら、簾さんに駆け寄って言う。
「無事、です……か?」
「俺がそう君に言ってあげたかったな」
簾さんはこんな状況でも冗談めかして笑って、ぽんとわたしの頭を叩く。
「ありがとう。……さすが、並のお嬢さんじゃないな」
褒められたのかはわからないけど、頭に触れた手があたたかった。
……義兄の撫で方とは違う、かすめるような一瞬の接触だった。
直後、サイレンの音が遠くで響きはじめた。わたしはごくりと息を呑んで言う。
「簾さん、警察が……!」
彼は軽く手を挙げて護衛に指示を出し、わたしに目を戻す。
「逃げて。……今度は、俺から会いに行くよ」
わたしは背を押されて、後ろ髪を引かれながら人波にまぎれた。
その日の昼の事件は地域新聞にも載って、実際わたしも思い返すと怖くてたまらなかった。
――会いに行くよ。
でも簾さんが別れ際にそう言ったことを思い出すと、怖さとは違う熱が胸に宿ったのだった。