宝坂邸の箱庭

7 外気と来客

 事件の翌朝に目を覚ましたときには、世界がぼんやり霞んで見えた。
 体が重くて、喉の奥が焼けるように熱い。
 部屋の障子越しに差す光はやわらかいはずなのに、目の奥が痛かった。
 立ち上がって誰かに声をかけたかったけれど、体に力が入らない。
 いつの間にか眠っていたらしい。次に目を開けたときには、枕元に義兄が座っていた。
 白いシャツの袖をまくり、氷枕を手にしている。
 義兄がわたしの頭を持ち上げようとした、その感覚で意識が冴えた。
「起きたか」
 義兄が声をかけて、わたしの頭の下に氷枕を入れる。その声は低く落ち着いていた。
「……ごめん、わたしいつも」
「本当にいつもだったらいいと、思うよ」
 義兄は優しく笑って、そっとわたしを覗き込む。
「こういうとき莉珠は少し甘えっ子になる。迷惑をかけてくれる。……嬉しいと思う俺は、駄目な兄なんだろうな」
「そんなことない……」
 小さい頃から病弱だったわたしを、義兄は迷惑がる素振りもなく面倒を見てくれた。
 今みたいに氷枕を敷いて、果物を剥いて、薬や着替えを用意してくれる。それって世間の兄が妹にすることなのかなと言ったことがあるけど、義兄は笑って答えた。
――じゃあ宝坂家の兄妹だけの秘密にしておこう。
「莉珠、薬の前に何か食べなさい。雑炊なら食べられるか?」
 看病をする義兄の声は、昔も今も、真綿で包むように柔らかい。ゆりかごの中に沈むように、ずっと聞いていたくなる。
 でもわたしはそれに答える前に、ずっと気になっていたことをつぶやいた。
「昨日の事件……。簾さん、どうなったのかな」
 義兄の手が、ぴたりと止まった。
 次の瞬間、瞳に冷えた光が宿る。
「おまえは何も気にしなくていい」
 穏やかに言ったのに、空気がぴんと張りつめた。わたしはとっさに、庇うように言葉を続ける。
「……あの人、悪いことはしてないよ」
「莉珠」
 義兄はわたしの名前を呼んで、ゆっくりと頭を撫でた。
「おまえを危険に晒した時点で、俺にとっては悪い人間だ」
 怒りより静かな断定に、わたしは何も言い返せなかった。
 義兄は立ち上がって、少しだけ開いた窓を閉めた。白い朝の光も遮断するように、鎧戸も締めてしまう。
 影の差した横顔で、義兄はわたしに言う。
「さ、何も心配せずよくお休み。起きる頃に食事を持ってきてやる。……どんなときも俺と父さんは、おまえを守るから」
 守る――その言葉が胸の奥に沈んだ。
 まるで金色の鎖のように、やさしく絡みつく音がした。
 義兄はまたわたしの頭をなでて、静かに部屋を出ていった。
 その背中が廊下に消えるまで、わたしは目を閉じられなかった。



 夕方、目が覚めると屋敷の空気が変わっていた。
 客間の方から、低い男たちの声がする。わたしはまだ体が重かったけれど、そろりと足を忍ばせてそちらに向かった。
 障子越しに見える影は二つで、黒いスーツ姿の男たちだった。
「休日に失礼します、宝坂惣一さん。昨日の病院の件で、お宅のご親族が現場にいらしたと伺いまして」
「ああ、莉珠のことですね」
 それに答える義兄の声は穏やかで、敵対的な色はなかった。ただどこか距離を置いた口調で続ける。
「ええ、うちの子が催しに参加していたのは事実です。ですが、授業の一環でしょう? 巻き込まれただけと認識しています」
「その……事件当時、理事である清陀簾氏と接触があったようで――」
 その瞬間、惣一の声色が変わった。
 優しい口調の中、氷のような響きが混じる。
「ずいぶん丁重に扱っていらっしゃるようですね。警察の方々にとっては、うちと大差ないはずなんですが」
 言葉には柔らかさがあったが、その奥に冷たい刃が潜んでいた。
「私も平時は市民の一人として、取り調べでも何でも受けるところです。……ただ、うちの子は今、体調を崩しています。今日は帰ってください」
「ですが……」
 義兄は一息分だけ沈黙して、笑みを消して告げる。
「お引き取りください」
 空気が凍った音がした。
 義兄の口調はどこも荒らげていなかったが、反論の余地を失うような圧を持っていた。
 廊下の奥で、まもなく靴音が遠ざかる。わたしもそっと踵を返して部屋に戻った。
 玄関の扉が閉じると、屋敷の空気は吸い込むように沈黙した。
 その沈黙は安らかで、同時に恐ろしさも持っていた。
 やがて義兄が部屋の戸を開けて顔を出す。
「起きてたのか」
「……うん」
 義兄は微笑んで、わたしの額に手を当てた。
「熱、下がってきたな」
「警察の人、来てた……?」
「もう帰ったよ。何も心配しなくていい」
 その声は穏やかで、あたたかかった。
「警察もやくざも、おまえは関わらなくていいんだ」
 義兄の指がわたしの髪をすくい、優しく撫でた。
 その仕草はいつも通りなのに、なぜか涙が出そうになった。
 屋敷の外では、夜の風が木々を揺らしている。
 その音の向こうで、白い雪が舞いはじめていた。
 わたしの熱もゆっくりと冷めていったけれど、胸の奥の痛みだけはまだ消えてくれなかった。
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