宝坂邸の箱庭

8 震える心

 冬が少しだけ遠のいた午後、久しぶりに空が青く晴れていた。
 風は冷たいのに陽の匂いがあって、出かけるのにちょうどよかったのだろう。
「最近、家の外の空気を吸っていない気がする」
 わたしが何気なくそう言ったら、義兄はうなずいた。
「そうだな。今夜は外で食べよう。先週の約束、まだだったからな」
 外食という言葉を聞いて、わたしの心も弾んだ。
 義兄が連れていってくれたのは、郊外の小さなレストランだった。
 街灯が並ぶ通りから少し奥まった場所にあって、外観はつたに覆われた白い建物だった。
 扉を開けると、レモングラスの香りと銀食器の音が心地よく混ざっていた。
 店の奥の席に向かい合って座ると、義兄はメニューを閉じながら苦笑する。
「莉珠にはもっと小さい頃から、外の料理を食べさせてやればよかったと思ってたんだ。いつも家の味ばかりでかわいそうだった」
「そんなことないよ。そう兄の作る味噌汁がいちばん好き」
「……いい子だな、おまえは」
 彼は少しだけ目を伏せて笑った。
 どこか照れたようでもあり、切ないような色もあった。
 運ばれてきた料理は、ホタテとアボカドのアンティパストに、豚肉のリエット、カボチャのスープと、どれも宝石みたいに繊細だった。
 おいしいねと義兄と話しながら、ゆったりと食事を進める。
 コースの中盤で、店員が淡い色のシャンパンをグラスに注いだ。
「きれいだね……。飲んでもいい?」
「ああ。保護者の前だからな」
「ふふ」
 冗談でも本当でもよくて、わたしは笑った。
 グラスの中の泡が、星みたいに弾けた。一口飲むと、花のような香りが喉の奥に広がる。
 体がじんわりと温まって、胸の鼓動がゆっくりになった。
「これもおいしいよ。そう兄も」
「ん」
 わたしがそう言ったのに、惣一はしばらく優しいまなざしでただわたしを見ていた。手のひらの中にある、小さくて柔らかいものを見下ろすみたいな目だった。
 小さい頃から降り注いできたそのまなざしに守られて、わたしはつい飲みすぎてしまったのかもしれない。
 帰り道の車の中で、急に眠気が襲ってきた。窓の外の街の灯りが滲んで見える。
「莉珠。眠いか?」
 義兄の声がすぐ近くで聞こえて、わたしはとろりとした目でうなずく。
「……ちょっとだけ」
「寝てていい。着いたら起こしてやる」
 その声がゆりかごみたいに遠のいていって、心地よく揺られていた。
 義兄は起こすと言ったけど、わたしが眠っているといつもそのまま運んでくれる。その日もそうだった。
 遠くで冬の風の音がして、外は寒いんだとぼんやり思う。
 でも義兄の背に負われていると、そんな寒さはどこも感じない。
 揺れる肩越しに、見上げた空には月が浮かんでいる。
 息をすると、義兄のスーツから懐かしい洗剤の匂いがした。
 ……そう兄の背中、昔から変わらない。
 そう思ったら、ことりと音を立てるように深い眠りに落ちていた。



 どれくらい眠っていたか、まぶたの向こうの暗さで薄く察した。
 たぶん夜もずいぶんと更けた頃、わたしは自分の部屋の布団の中にいるらしい。
 誰かが毛布を整える気配がして、わたしはまだ眠気の中をさまよっていた。
 まぶたを開いたつもりはなかった。でも、すぐ側に義兄の気配を感じた。
 義兄はわたしの顔のすぐ近くで、わたしの肩まで毛布をかけてくれている。
 その動作はいつものように穏やかなのに、義兄らしくもなくどこか不器用にも感じた。
 そう兄と呼ぼうとして、唇から息がもれる。
 ……そのとき、義兄が小さく息を呑んだ。
 肩にあった指先が震えて、ゆっくりと伸びてくる。
 そして、そっと……わたしの目の下に、義兄の唇が触れた。
 ほんの一瞬で、雪が触れて溶けるように、すぐに離れていった。
 その瞬間は、何も聞こえなかった。夢の中なのかもしれなかった。
 ただ、彼の呼吸だけが夜の中で生きていた。
 義兄はしばらく動かず、やがて立ち上がる。部屋の灯りは消えて、静寂が戻る。
 残ったのは、目の下に微かに残るぬくもりだった。
 目を閉じたまま、わたしは心の奥で何かが軋む音を聞いた。
 どうして……?
 感情が、その軋みの中で戸惑っている。
 わたしはぎゅっと体を丸めて、震える心ごと体を抱きしめた。
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