リシェル・ベッカーが消えた日〜破滅と後悔はすぐそこに〜
(……は?)
一瞬、フランクの思考が止まった。聞き間違えたかと思ったが、使用人達の真剣な眼差しからは嘘を言っているようには見えない。他人を惑わすために他人の表情や仕草を熟知しているフランクにはわかる。
これは紛れもなく、彼らの本心なのだと。
「血迷ったか? 使用人ごときが、私に何を言っているかちゃんと理解しているのか?」
「もちろんです。そして、雇い主ではないあなたが我々を引き留める理由もございません」
「何を言って――」
フランクの言葉を遮るように、家令は二枚の紙を差し出す。
一枚は屋敷内の取り決めについて書かれた覚書、もう一枚は家令の雇用契約書だ。雇用主に記載された名前はリシェル・ベッカーと書かれている。
それを見て、フランクはようやく思い出した。事実上の屋敷の主人はリシェルだったことを。
「こちらはハンク様の亡き後、本来継がれるはずだったリシェルお嬢様が家督を旦那様に渡す代わりに、使用人の雇用含む屋敷の管理はすべてお嬢様に一任すると決まった際、お嬢様たっての希望で作成し、双方に署名された覚書でございます」
「……っ、馬鹿馬鹿しい! 我が家以上の待遇は探すのに苦労するぞ。こんな紙切れで、お前達は破滅の一途を辿るというのか?」
「よくご覧いただけますか。この雇用契約書には、『万が一、雇い主が不慮の事故によって死亡した場合、その翌月末に解除する』と記載されております。――つまり、今月の末にて終了なのです」
フランクは家令の雇用契約書を奪い取り、目を皿にして隅々まで確認する。
確かに今月末に契約終了の旨が書かれているだけではなく、雇い主が亡くなった時のことまでしっかりと取り決められていたのだ。
今はタイプライターで作った書類を原本にして複数用意する必要がある際は、コピーする魔道具を使ってそれぞれに合った契約書を作成することができる。
そこでフランクはハッとした。この覚書には、後から改ざんされないように魔術が施されている。普段の商談でも契約書には不正がないよう、誓約の魔術を施す取り決めとなっているが、これほどまでに精巧なものは見たことがない。
(一日二日でできるものではない、最低でも一ヵ月以上はかかる代物だ。リシェルはこの作業を、たった一人で数十名分の契約書を作成し、取り交わしたとでもいうのか!)
魔法は一人ひとつ受け継がれる奇跡とされているが、人は少なからず魔力を保持している。そして魔術は、魔力と読解力があれば誰でも扱える代物なのだ。さらにリシェルは魔法を持たずとも、限られた者が勤務する王立図書館の優秀な司書だ。魔術書くらい手に入れるのは容易く、解読も可能だっただろう。
あまりにも緻密な書類に愕然としていると、家令がさらに畳みかける。
「リシェルお嬢様がいなくなった今、我々がこの屋敷に残る理由も義務もございません。今後についてでしたらご心配なく。リシェル様からお出かけになられる前に全員分の紹介状をお預かりいたしました。皆、すでに次の働き口はございます」
「こ、こんなことをして、ただで済むと思っているのか!」
「我々はベッカー伯爵家が作成した雇用契約書に従っているだけです。多くの使用人が屋敷を出ることになりますが、それまでには残った者達へ引継ぎが終わる予定です。――ご承諾、いただけますね?」
重鎮の家令がまっすぐ見据えた瞳の奥は冷めきっていた。
その後、どれだけ交渉を重ねたところで彼らの意志は硬く、これ以上覆すことができないと悟ったフランクは、了承せざる得なかったのだった。
一瞬、フランクの思考が止まった。聞き間違えたかと思ったが、使用人達の真剣な眼差しからは嘘を言っているようには見えない。他人を惑わすために他人の表情や仕草を熟知しているフランクにはわかる。
これは紛れもなく、彼らの本心なのだと。
「血迷ったか? 使用人ごときが、私に何を言っているかちゃんと理解しているのか?」
「もちろんです。そして、雇い主ではないあなたが我々を引き留める理由もございません」
「何を言って――」
フランクの言葉を遮るように、家令は二枚の紙を差し出す。
一枚は屋敷内の取り決めについて書かれた覚書、もう一枚は家令の雇用契約書だ。雇用主に記載された名前はリシェル・ベッカーと書かれている。
それを見て、フランクはようやく思い出した。事実上の屋敷の主人はリシェルだったことを。
「こちらはハンク様の亡き後、本来継がれるはずだったリシェルお嬢様が家督を旦那様に渡す代わりに、使用人の雇用含む屋敷の管理はすべてお嬢様に一任すると決まった際、お嬢様たっての希望で作成し、双方に署名された覚書でございます」
「……っ、馬鹿馬鹿しい! 我が家以上の待遇は探すのに苦労するぞ。こんな紙切れで、お前達は破滅の一途を辿るというのか?」
「よくご覧いただけますか。この雇用契約書には、『万が一、雇い主が不慮の事故によって死亡した場合、その翌月末に解除する』と記載されております。――つまり、今月の末にて終了なのです」
フランクは家令の雇用契約書を奪い取り、目を皿にして隅々まで確認する。
確かに今月末に契約終了の旨が書かれているだけではなく、雇い主が亡くなった時のことまでしっかりと取り決められていたのだ。
今はタイプライターで作った書類を原本にして複数用意する必要がある際は、コピーする魔道具を使ってそれぞれに合った契約書を作成することができる。
そこでフランクはハッとした。この覚書には、後から改ざんされないように魔術が施されている。普段の商談でも契約書には不正がないよう、誓約の魔術を施す取り決めとなっているが、これほどまでに精巧なものは見たことがない。
(一日二日でできるものではない、最低でも一ヵ月以上はかかる代物だ。リシェルはこの作業を、たった一人で数十名分の契約書を作成し、取り交わしたとでもいうのか!)
魔法は一人ひとつ受け継がれる奇跡とされているが、人は少なからず魔力を保持している。そして魔術は、魔力と読解力があれば誰でも扱える代物なのだ。さらにリシェルは魔法を持たずとも、限られた者が勤務する王立図書館の優秀な司書だ。魔術書くらい手に入れるのは容易く、解読も可能だっただろう。
あまりにも緻密な書類に愕然としていると、家令がさらに畳みかける。
「リシェルお嬢様がいなくなった今、我々がこの屋敷に残る理由も義務もございません。今後についてでしたらご心配なく。リシェル様からお出かけになられる前に全員分の紹介状をお預かりいたしました。皆、すでに次の働き口はございます」
「こ、こんなことをして、ただで済むと思っているのか!」
「我々はベッカー伯爵家が作成した雇用契約書に従っているだけです。多くの使用人が屋敷を出ることになりますが、それまでには残った者達へ引継ぎが終わる予定です。――ご承諾、いただけますね?」
重鎮の家令がまっすぐ見据えた瞳の奥は冷めきっていた。
その後、どれだけ交渉を重ねたところで彼らの意志は硬く、これ以上覆すことができないと悟ったフランクは、了承せざる得なかったのだった。