恋のリハーサルは本番です

第147話 余裕の正体を、聞いてしまった夜

稽古場の照明が一部だけ落とされ、片付けの音が遠のいていく。

蓮は台本を抱えたまま、廊下の角で足を止めた。

──声が、聞こえた。

「あかり」

低く、落ち着いた翔の声。

反射的に身体が強張る。立ち去るべきだとわかっているのに、足が動かない。

「……さっきの修正、無理してない?」

一瞬の沈黙。

それから、あかりの小さな息。

「無理、してないって言ったら嘘になるけど……でも」

「でも?」

「書かないと、置いていかれる気がして」

その言葉に、蓮の胸が詰まる。

彼女が誰にも見せなかった弱音。

翔は、すぐに励まさなかった。

「……それさ」

声の調子が、少しだけ変わる。

「逃げてないからだろ」

あかりが、驚いたように息を止める気配。

「書けなくなる夜が来るの、わかってて書いてる。
評価落ちるかもしれないって思いながら、書き直してる」
一拍。

「それ、逃げてる奴はしない」

蓮は思う。

翔は、煽るときの翔じゃない。

「俺さ」

翔の声が、ほんの少しだけ低くなる。

「余裕あるように見えるって言われるけど、あれ全部、覚悟なんだよ」

覚悟。

「失敗しても、嫌われても、
“それでも自分は舞台に残る”って決めてるだけ」

あかりが、静かに笑った。

「……そういうところが、ずるい」

「ずるくていいだろ」

軽く言うけれど、その裏に、長い時間があるのがわかる。

「脚本家としてじゃなくてさ」

翔は、はっきり言った。

「一人の人間として、あかりが潰れそうになるなら、俺は止める」

その瞬間、
蓮の胸に、鈍い痛みが走る。

(……あ)

翔の“余裕”は、
自信でも、計算でもない。

失う覚悟を、もう終えている強さ だ。

あかりは、しばらく黙っていたが、やがて小さく答えた。

「ありがとう。……それ、救われる」

その声が、あまりにも素直で。

蓮は、そっと一歩、後ずさる。

聞いてはいけないものを聞いた気がした。

(俺は)

自分に問う。

脚本家としての彼女しか、見ていなかった。

守る距離を保つことが、正しいと思っていた。

(翔は、もう)

一人の女性として、

逃げ場を用意している。

廊下の向こうで、月明かりが窓に滲む。

蓮は、静かに目を閉じた。

(……負けたくない、じゃない)

初めて、はっきりとわかった。

追いついていないのは、覚悟の方だ。

同じ夜を越えたと思っていた。

けれど、自分はまだ、入り口に立っていただけだった。
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