恋のリハーサルは本番です

第148話 覚悟の遅れ

廊下の角で、蓮は動けなくなっていた。
自分が聞いてしまった言葉が、まだ空気の中に残っている気がして。 翔の声。 あかりの、少し驚いたような沈黙。

(……だから俺なら逃げない)

胸の奥で、何かが鈍く音を立てた。 怒りでも、嫉妬でもない。 もっとみっともなくて、もっと正直な──劣等感。

(逃げてるのは……俺か)

蓮は、壁に軽く背を預け、天井を仰いだ。 照明の白が、やけに冷たい。

翔の“余裕”は、軽さじゃなかった。 遊びでもなかった。 あかりに対して、期待しすぎず、でも覚悟を決めている── あの距離感。

(脚本家だからじゃない)
(才能があるからじゃない)

「一人の女性」として、向き合う準備があるかどうか。 それだけの差。

足音が近づいてきて、蓮は咄嗟に身を引いた。

曲がり角の向こうから、あかりが一人で出てくる。 俯きがちで、台本を抱えたまま。
すれ違う、ほんの一瞬。

「あ……」

声をかけかけて、喉が止まる。 今、何を言う? 何を言えばいい?

あかりは気づいていない。 蓮がそこにいたことも、 聞いてしまったことも。

それが、余計に胸を締めつけた。

(俺は)
(まだ、“俳優の立場”に逃げてる)

評価。 主演。 立場。 守るべき線。

全部、正しい。 でも──恋の前では、全部言い訳だ。

あかりの背中が遠ざかる。 蓮は、拳をぎゅっと握った。

(次は)
(次は、逃げない)

それが、翔への対抗心なのか、 あかりへの気持ちなのか、 まだ言葉にはできない。

けれど。

同じ夜に、 同じ月の下で、 一人だけ、覚悟の遅れを自覚した男がいた。

そしてその遅れが、 やがて── 物語を、静かに
動かしていくことを、 蓮自身も、もう分かっていた。
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