恋のリハーサルは本番です
第149話 覚悟の遅れ(二)
翌日の稽古場は、いつもと同じはずだった。
同じ照明。
同じ床のきしむ音。
同じ台本の匂い。
──なのに、桜井蓮だけが、どこか一歩遅れていた。
「……おはようございます」
水無月あかりの声がする。
条件反射で顔を上げそうになって、蓮は一瞬、視線を伏せた。
昨日の夜、聞いてしまった言葉が、まだ胸の奥に刺さったままだった。
『だから俺なら逃げない』
翔の声。
あかりに向けられた、あの余裕。
(逃げてるのは……俺だ)
そんな自己嫌悪を、誰も気づかない。
気づかせないように、蓮は「主演の顔」を貼りつける。
「おはようございます」
声は、いつも通りだった。
あかりは軽く会釈し、すぐに亜理沙の方へ向かう。
「今日の三幕、感情の立ち上がり少し早めでいこうか」
「はい! ……あ、桜井さんも一緒に確認します?」
その一言で、三人の距離が一気に近づく。
──亜理沙が、間に立つ。
無自覚に。 無防備に。
「私、昨日家で練習してたら、ここでドキッとしちゃって」 台本を指差しながら、亜理沙は笑う。
「桜井さんの間の取り方、ずるいですよね」
「……そう?」
蓮が答えるより先に、あかりが口を挟んだ。
「ずるくはない。計算してるだけ」
「でも、その計算が胸に来るんです!」
亜理沙は楽しそうに言って、二人を見比べる。
「脚本と演技が噛み合ってるって、こういうことなんだなって思いました」
その言葉に、あかりの肩がわずかに揺れた。
蓮は、その小さな変化を見逃さなかった。
(……今の)
俳優としての目が、反射的に拾ってしまう。
「……水無月さん?」
名前を呼んでしまってから、遅れて気づく。
それが「脚本家」ではなく、「一人の女性」を呼ぶ声だったことに。
あかりは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……なに?」
「いや……」
続く言葉が、見つからない。
亜理沙は二人の間の空気を感じ取って、首をかしげる。
「……私、邪魔ですか?」
その一言に、二人同時に否定した。
「違う」
「そんなことない」
声が重なって、沈黙が落ちる。
亜理沙は目を丸くしてから、くすっと笑った。
「……ああ」
「なるほど」
「な、なにが?」
問い返すあかりに、亜理沙は真顔で言う。
「二人とも、同じところで立ち止まってるんですね」
「え?」
「好きなのに、役割を理由に動かない」
その言葉は、冗談みたいな顔で放たれたのに、 蓮の胸に、容赦なく刺さった。
(……覚悟の遅れ)
それが、今の自分だ。
翔は、逃げないと言った。 亜理沙は、もう気づいている。 あかりは、書くことで感情と向き合っている。
──残っているのは、自分だけ。
稽古開始の声がかかる。
蓮は、静かに立ち位置へ向かいながら、 初めてはっきりと思った。
(このままじゃ、舞台でも、恋でも)
(俺は、負ける)
そしてそれは、 「主演を奪われる恐怖」ではなく、
一人の女性を、取り逃がす覚悟の遅れだった。
同じ照明。
同じ床のきしむ音。
同じ台本の匂い。
──なのに、桜井蓮だけが、どこか一歩遅れていた。
「……おはようございます」
水無月あかりの声がする。
条件反射で顔を上げそうになって、蓮は一瞬、視線を伏せた。
昨日の夜、聞いてしまった言葉が、まだ胸の奥に刺さったままだった。
『だから俺なら逃げない』
翔の声。
あかりに向けられた、あの余裕。
(逃げてるのは……俺だ)
そんな自己嫌悪を、誰も気づかない。
気づかせないように、蓮は「主演の顔」を貼りつける。
「おはようございます」
声は、いつも通りだった。
あかりは軽く会釈し、すぐに亜理沙の方へ向かう。
「今日の三幕、感情の立ち上がり少し早めでいこうか」
「はい! ……あ、桜井さんも一緒に確認します?」
その一言で、三人の距離が一気に近づく。
──亜理沙が、間に立つ。
無自覚に。 無防備に。
「私、昨日家で練習してたら、ここでドキッとしちゃって」 台本を指差しながら、亜理沙は笑う。
「桜井さんの間の取り方、ずるいですよね」
「……そう?」
蓮が答えるより先に、あかりが口を挟んだ。
「ずるくはない。計算してるだけ」
「でも、その計算が胸に来るんです!」
亜理沙は楽しそうに言って、二人を見比べる。
「脚本と演技が噛み合ってるって、こういうことなんだなって思いました」
その言葉に、あかりの肩がわずかに揺れた。
蓮は、その小さな変化を見逃さなかった。
(……今の)
俳優としての目が、反射的に拾ってしまう。
「……水無月さん?」
名前を呼んでしまってから、遅れて気づく。
それが「脚本家」ではなく、「一人の女性」を呼ぶ声だったことに。
あかりは、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……なに?」
「いや……」
続く言葉が、見つからない。
亜理沙は二人の間の空気を感じ取って、首をかしげる。
「……私、邪魔ですか?」
その一言に、二人同時に否定した。
「違う」
「そんなことない」
声が重なって、沈黙が落ちる。
亜理沙は目を丸くしてから、くすっと笑った。
「……ああ」
「なるほど」
「な、なにが?」
問い返すあかりに、亜理沙は真顔で言う。
「二人とも、同じところで立ち止まってるんですね」
「え?」
「好きなのに、役割を理由に動かない」
その言葉は、冗談みたいな顔で放たれたのに、 蓮の胸に、容赦なく刺さった。
(……覚悟の遅れ)
それが、今の自分だ。
翔は、逃げないと言った。 亜理沙は、もう気づいている。 あかりは、書くことで感情と向き合っている。
──残っているのは、自分だけ。
稽古開始の声がかかる。
蓮は、静かに立ち位置へ向かいながら、 初めてはっきりと思った。
(このままじゃ、舞台でも、恋でも)
(俺は、負ける)
そしてそれは、 「主演を奪われる恐怖」ではなく、
一人の女性を、取り逃がす覚悟の遅れだった。